謡曲熊野の原典「平家物語 巻第十「海道下」(かいどうくだり)」   (現代語訳)
 
1 あらすじ
源頼朝の要望により、平重衡は梶原景時に連れられて、鎌倉へと護送された。
蝉丸の故事で有名な四宮河原を過ぎ、
相坂山を越え、勢田の唐橋を渡る。
野路の里、志賀の浦、鏡山、比良と過ぎると伊吹山に近付いた。
不破の関、鳴海の塩干潟、在原業平の和歌で有名な八橋を過ぎ、浜名の橋を渡る。
池田の宿では、宿駅の長者の娘・侍従のもとに泊まった。
侍従は、かつて平宗盛が寵愛した東海道一の和歌の名手であった。
3月も暮れようとしていた。
時子も重衡の北の方・大納言佐殿も祈ったが、その甲斐はない。
大納言佐殿は子供がいなかったのがせめてもの救いだと語った。
さやの中山、宇都の山辺の蔦の道を越え、手越を過ぎると、甲斐の白峰が見えた。
清見が関を過ぎると、富士の裾野に着いた。
足柄の山を越え、こゆるぎの森、まりこ河、小磯・大磯の浦々、八松、とがみが原、神輿が崎…
そうして鎌倉にたどり着いた。
 
2 謡曲熊野
 この話の中の護送される平重衡が、池田の宿で出会った長者の娘・侍従が実は平宗盛がかつて寵愛した和歌の名手であったということである。この話をふくらませて謡曲にしたものである。
 平家物語では熊野は長者の名で、宗盛に召されたのはその娘の侍従となっている。謡曲の熊野は、平宗盛が寵愛した女の名前となっている点が異なる。
 
3 平家物語 高野本 巻第十より http://www.j-texts.com/heike/takano/ht010.html
『海道下』
○さる程に、本三位中将をば、鎌倉の前兵衛
佐頼朝、頻に申されければ、「さらば下さるべし」とて、
土肥次郎実平が手より、まづ九郎御曹司の
宿所へわたし奉る。同三月十日、梶原平三景時に
具せられて、鎌倉へこそ下られけれ。西国より生取
にせられて、都へかへるだに口惜に、いつしか又関
の東へおもむか【赴か】れけん心のうち、をしはから【推し量ら】れて哀
也。四宮河原になりぬれば、ここはむかし、延喜第四の
王子蝉丸の関の嵐に心をすまし【澄まし】、琵琶をひき
給ひしに、伯雅【*博雅】の三位と云し人、風の吹日もふかぬ
日も、雨のふる夜もふらぬよ【夜】も、三とせ【年】が間、あゆみ【歩み】を
はこび、たち【立ち】聞て、彼三曲を伝へけむわら屋【藁屋】の
床のいにしへも、思ひやられて哀也。相坂山【逢坂山】を打
こえて、勢田の唐橋駒もとどろにふみならし【鳴らし】、
雲雀あがれ【上がれ】る野路の里、志賀のうら浪【浦浪】はる【春】
かけて、霞にくもる鏡山、比良の高根を北に
して、伊吹の嵩もちかづき【近付き】ぬ。心をとむ【留む】としなけれ共、
あれて中々やさしきは、不破の関屋の板
びさし、いかに鳴海の塩干潟【潮干潟】、涙に袖はしほれ【萎れ】つつ、
彼在原のなにがしの、から衣【唐衣】きつつなれにしと
ながめけん、三河の国八橋にもなりぬれば、蛛手
に物をと哀也。浜名の橋をわたりたまへ【給へ】ば、松の
梢に風さえ【冴え】て、入江にさはぐ【騒ぐ】浪の音、さらでも
たび【旅】は物うきに、心をつくすゆふまぐれ【夕間暮れ】、池田の宿
にもつきたまひ【給ひ】ぬ。彼宿の長者ゆや【熊野】がむすめ、侍従が
もとに其夜は宿せられけり。侍従、三位中将を見
たてま【奉つ】て、「昔はつてにだに思ひよらざりしに、
けふはかかるところ【所】にいら【入ら】せたまふ【給ふ】ふしぎ【不思議】さよ」とて、
一首のうた【歌】をたてまつる【奉る】。
 
旅の空はにふ【埴生】のこやのいぶせさに
ふる郷【故郷】いかにこひしかるらむ
 
三位中将返事には、
 
故郷もこひしく【恋しく】もなしたびのそら【空】
みやこ【都】もついのすみか【栖】ならねば
 
中将「やさしうもつかまたるものかな。此歌のぬしは、
いかなる者やらん」と御尋あり【有り】ければ、景時畏て
申けるは、「君は未しろしめさ【知ろし召さ】れ候はずや。あれこそ
八島の大臣殿の、当国のかみでわたらせ給候し時、
めされまいらせ【参らせ】て、御最愛にて候しが、老母を
是に留めをき、頻にいとまを申せども、給はらざり
ければ、ころ【比】はやよひ【弥生】のはじめなりけるに、
 
いかにせむみやこ【都】の春もおしけれ【惜しけれ】ど
なれしあづま【東】の花やちるらむ
 
と仕て、いとまを給てくだり【下り】て候し、海道一の
名人にて候へ」とぞ申ける。都を出て日数ふれば、
弥生もなかば【半ば】すぎ、春もすでに暮なんとす。
遠山の花は残の雪かとみえ【見え】て、浦々島々かすみ
わたり、こし方行末の事共おもひつづけ給ふに、
「されば是はいかなる宿業のうたてさぞ」との給て、
ただつきせ【尽きせ】ぬ物は涙なり。御子の一人もおはせぬ
事を、母の二位殿もなげき、北方大納言佐殿
も本い【本意】なきことにして、よろづの神仏に
祈申されけれ共、そのしるしなし。「かしこうぞなかり
ける。子だにあらましかば、いかに心ぐるしからむ」との給
ひけるこそせめての事なれ。さや【小夜】の中山にかかり
給ふにも、又こゆべしともおぼえねば、いとど哀の
かずそひて、たもとぞいたくぬれまさる。宇都の
山辺の蔦の道、心ぼそくも打越て、手ごし【手越】を
すぎてゆけば、北に遠ざかて、雪しろき【白き】山あり【有り】。
とへば甲斐のしらね【白根】といふ。其時三位中将おつる
涙をおさへ【抑へ】て、かうぞおもひ【思ひ】つづけたまふ【給ふ】。
 
おしから【惜しから】ぬ命なれどもけふまでぞ
つれなきかひのしらね【白根】をもみつ
 
清見が関うちすぎて、富士のすそ野になり
ぬれば、北には青山峨々として、松ふく【吹く】風索々
たり。南には蒼海漫々として、岸うつ浪も
茫々たり。「恋せばやせ【痩せ】ぬべし、こひせ【恋せ】ずもあり【有り】けり」と、
明神のうたひ【歌ひ】はじめたまひ【給ひ】ける足柄の山をも
うちこえて、こゆるぎ【小余綾】の森、まりこ河【鞠子河】、小磯、大磯
の浦々、やつまと【八的】、とがみが原【砥上が原】、御輿が崎をも
うちすぎて、いそがぬたび【旅】と思へども、日数やうやう
かさなれば、鎌倉へこそ入給へ。

  遠州郷土資料
inserted by FC2 system