遠州見附宿日本左衛門騒動記

かさぶた(六十)日録より

日本左衛門騒動記 日本左衛門の由来書の事



強盗、浜崎庄兵衛出姓、異名日本左衛門と言う、並び由来書の事

そもそも慶長以来より、御代々、政事素直にして、賞罰正しくまします故、四海浪静かに、民を豊かに治めりける。百姓は田畑を作り、これ天道明らかにして、五穀もおのずから実り、誠に閉ざゝぬ御代と申す事、偏えに君の御仁徳、申すも中々愚かなり。

然るに、寛保(1741~1744)の末、延享三丙寅(1746)の秋、伊豆・駿河・遠江・三河・尾張・美濃・伊勢・近江、この八ヶ国の内に、押入強盗、徘徊して、往来の旅人などを悩まし、あるいは民、町家へ大勢押し込み、金銀財宝をことごとく奪取、その上、人をも害し、その乱暴、無礼に耐え難く、誠に熊坂長範か、石川五右衛門にも劣らぬ悪党なり。この盗人の頭と申すは、浜嶋庄兵衛と言う者なり。
※ 熊坂長範(くまさかちょうはん)- 平安末期の伝説的盗賊。奥州へ下る金売吉次を襲おうとして、美濃国赤坂の宿場で牛若丸に討たれたという。

この手下の者ども、凡そ四、五十人も御座候。この庄兵衛が住居せし所は、二俣・見附・池田・袋井へ、通路宜しき所なり。さてまた、北の方に、川口の渡し舟有り。これより三州鳳来寺への近道あり。さてまたその所を出立致し、信州何村と言う所へ罷り越し、暫く逗留いたしける。この村は鍬柄など、荷鞍を細工致す所なり。ここは殊の外、辺鄙(へんぴ)なる村ゆえ、地頭役人衆、かつて参らず、浪人者住居よき所なるに依って、悪党どもを集め、昼夜博打を職とし居たりける。
※ 鍬柄(くわがら)- 鍬の手で握る部分。え。とって。
※ 荷鞍(にぐら)- 荷馬の背に置く鞍。荷をつけるための鞍。


さてまた、その後、遠州芝本村へ立ち帰り、手下の者どもを呼び集め、近江富貴なる家へ押し込み申すべきと、手下の者どもに言い合わせ、その節の出で立ち、着類と申すは、皆々黒半天にかぶと頭巾、提灯てんでに持ち、その家へ押し込み、金銀を奪取、百姓、町人に至るまで、夜も寝られず大難儀致し、これに依り、思案ある人、村々の人別帳面を以って、ことごとく改め候えば、うろんなる者ども、宿を失い、是非なく芝本村を立ちのき申し候。
※ 着類(きるい)- 身にまとう物。衣類。
※ かぶと頭巾 - 江戸時代の火事装束の一つで、兜形の頭巾。
※ うろん(胡乱)- 正体の怪しく疑わしいこと。また、そのさま。


しかるに、天竜川の近所に、上新家村という所に、甚兵衛という似非者有り。この者常々博奕(ばくえき)などを家業として、庄兵衛が手下の者ども、盗み取りし品々を預り置き、他所へ持ち出し、売り払い申し候。庄兵衛は日頃心安き故、芝本村を立のき、かの甚兵衛が所へ参り、四方山(よもやま)の物語を致しければ、甚兵衛申しけるは、然らば、見苦しくとも、当分の内、手前方に御忍び成らるべくと申し、それより、積々(せきせき)馳走して置き、終には庄兵衛が手下こそは成りにけり。この後、甚兵衛が異名を遠州左衛門と申しける。
※ 似非者(えせもの)- いかがわしい者。くせ者。したたか者。
※ 芝本村と上新家村 - 浜嶋庄兵衛(日本左衛門)が元の住居は芝本村にあったという。この芝本村は現在の浜松市浜北区於呂にあり、遠州鉄道遠州芝本駅が最寄り駅である。その後、身を寄せた、上新家村の甚兵衛(遠州左衛門)が住居は、天竜川の東側、現在の磐田市上新屋にあり、旧東海道筋ともさほど離れていない。見附宿まで一里ほどの所である。両方とも、ゆかりの建物でも残っていないかと考えてみたが、歌舞伎のヒーローとはいえ、盗賊の頭では無理というものであろう。


さてまた、浜嶋庄兵衛、生国は尾州のものなり。親は浜嶋富右衛門と言いて、尾張様の七里役義を勤めけり。道中宿々に御役所を建て、住居致し、大小御免の役人ゆえ、道中宿々、殊の外重んずるなり。十ヶ年以前まで、遠州金谷宿の御役所を勤め、今は相果てけり。
※ 七里役 - 街道の七里ごとに常駐した藩公用の飛脚で、富右衛門は東海道金谷宿の常駐であった。
※ 大小御免 - 武士同様に大小の刀を差すことを許される。


その子庄兵衛は富右衛門存生の内に勘当(かんどう)致し、それより遠州、三河内に数年徘徊(はいかい)致し、道中渡り、盗みに博奕(ばくえき)を家業としける。幼少の時は、名も友五郎というて、器量万人に勝れし。才智発明成りし生れなり。生長の後は、尾張重右衛門と言いて、その器量、柔和にして、人柄能く、力強く、釼術の達人なり。諸人自然と尊敬して、異名を日本左衛門と申しける。今は手下の者ども、餘多(あまた)有り。誠にその威勢強く、詞(ことば)に述べ難く、右は州(くに)の強盗の長本と成りしとなり。
※ 存生(ぞんじょう)- この世に生きていること。存命。生存。
※ 長本(ちょうほん、張本)- 悪事などを起こすもと。また,その人。張本人。首領。


臥煙平助と言う者の事、並び日本、平助を殺す事

かくその頃、金谷宿の内に、臥煙平助と言う無宿者有り。生国知れず。その生れつき、たくましく、力強く、武芸能く、角力など人に勝れて上手、然れども無宿者なるゆえに、道中筋無宿者どもと博奕を専らとし、あるは巾着切り、またある時は江戸へ下り稼ぎ、兎角住居も定らず、また遠州へ立ち帰り、袋井、見附両宿の内に徘徊(はいかい)して、宿々在々までも、博奕の有る所を尋ね出し、その場へ参り、ゆすりかけ、かすめ取る事、言語同断不敵ものなり。
※ 臥煙(がえん)- ならずもの。無頼漢。平助の二つ名(異名、あだ名)である。
※ 無宿者 - 江戸時代、百姓・町人で、駆け落ち・勘当などにより、人別帳から名前をはずされた者。
※ 巾着切り(きんちゃくきり)- 掏摸(すり)。
※ 言語同断(ごんごどうだん)- 言語道断。言葉で言い表せないほどひどいこと。
※ 不敵者(ふてきもの)- 大胆でおそれを知らない者。乱暴で無法な者。


また有る時は、日本が手下の者、押し込み配分の節、少しの事にも喧嘩(けんか)をしかけ、脇指しなどを抜き、脅しかけ、中々人を恐れぬ故、手向う人もなく、誠に日本が目にも余る大悪無道の者なり。

さてまた、その後、上新家村甚兵衛方に、日本は忍び居る事、聞き出し、袋井宿より駕籠に乗り、新家村まで三里余りの道のり、程なく着き致し、様子窺いけるに、日本は同村太郎兵衛方に博奕有りて、直ちに太郎兵衛方まで尋ね行き、その夜は博奕もなし、日本は甚兵衛方へ立ち帰り、平助は太郎兵衛対面し、四方山の咄しをいたし、日本の事尋ねけるに、一両日以前、我ら方へ見え候えども、今朝未明に上新家村甚兵衛方へ立帰り申し候由、申され、それより咄し終る。平助は暇乞いして出でにける。

程なく平助は甚兵衛方へ尋ね行き、初対面の物語し、その上日本左衛門が事、尋ね候えども、もはや寝られ候由挨拶し、平助申すには、日本殿に今晩是非御意を得たき子細あると、高々と咄しければ、日本も目を覚まし、兼ねて聞き及びし平助が来りしと思い、今や寝所を出んかと思いし時、亭主日本に平助と申す人来りし由、告げれば、

日本罷り出で、平助と名乗り合い、これは日本殿、平助殿かと、互に音には聞き及びしが、対面は今初めて、向後は御互いに御心安くと、一礼などをのべ、それより四方山の物語り、或は平助、江戸表の噂咄しなどをしかけ候て、日本が機嫌を窺い、さて貴殿には折悪しく、今日まで貴意を得ざる段、失礼千万、今晩御目に掛かる事、身に取りて大悦至極、この末は御互いに水と魚のごとく、御心安く思し召し、万事御頼み申し上げたく候。

かつまた拙者、今晩推参致す事、余の義にあらず、誠に身分相立ちがたく儀に付、近頃馴れ/\しく候えども、金子少々、急に入用、早速の心当たりもこれ無く、甚だ難義致し、ただ暫くの内、金子五両恩借致したく、御功利よくと思し召し、何分にも御貸し下さり候わば、忝(かたじけな)く存じ候。何分御頼み存ずるなり、と頼み懸けられ、
※ 恩借(おんしゃく)- 人の好意によって金銭や品物を借り受けること。また、その金品。
※ 功利(こうり)- 行為の結果として得られる名誉や利益。また,幸福と利益。


さすが日本左衛門も、初めて近付きに成る彼奴(きやつ)、噂に聞き及ぶ不敵やつと、心の内に思い、挨拶致す。これはさて、貴公の事、如才に存ぜざる拙者とても、萬事御頼み申し上げたき義もこれ有り候えば、何の五両や拾両の事なれば、早速御用に立ち申すべく候えども、さてこの節は、誠に金子は申すに及ばず、びた壱銭もこれ無し。それ故、引っ込み罷り在り候。御推量下さるべく候。もっとも一両日の内には、少々心当りの金子御座候間、間違いなく、急度御用立て申すべく候。必ず/\御苦労に成られまじく候と申しける。
※ 如才(じょさい)- 気を使わないために生じた手落ちがあること。また、そのさま。手抜かり。

それより甚兵衛女房に申し付け、初めての御近付きなれば、先ず御盃致すべきと申して、互いにさいつおさえつ、その上茶づけなど振るまい、積々(せきせき)馳走致しければ、平助大きに悦び、左様ならば、一両日中に、御礼ながら参上仕るべくと、暇乞いして立ち出でける。
※ さいつおさえつ - さしつさされつ。常套句で、「秋葉街道似多栗毛」でも出てきた。
※ 馳走(ちそう)- 食事を出すなどして客をもてなすこと。また、そのための料理。

それより又、駕籠を頼み立ち帰り、三、四丁行き過ぎて、駕籠の者に咄しけるは、さてさて貴様達は、嘸(さぞ)待ち久しく、たいくつにあったであろう。二、三日の内には、金子四、五両には急度成る故、その節は酒手も随分宜しく取らすべしと申して、勇みよく帰りながら、いろ/\咄しぞ致しける。程なく一言坂へ差し掛かる。ここは池田より東にあたり、見附への近道なり。この道は殊の外淋しく、物凄き処なれば、一言坂とは名付けたり。
※ 一言坂(ひとことざか)- 見付宿より池田へ抜ける間道の途中にある、磐田台地西南部の坂。武田、徳川の一言坂の戦いで知られる。「遠州濱松軍記」に出てきた。

然るに、日本左衛門は、この道筋の事よく知りたりける故に、跡より追いかけ行く。こやつ生かし置いては、後々に我々どもが邪魔に成る。大不敵ものなれば、やみ打ちに致すべくと思うて欠け付けたり。平助は何心なく駕籠に乗りて行く所を、大脇指を抜き放し、跡より肩先と思う所を、ぐっと突ければ、何やつ成ると飛んで出る所を、おがみ打ちに切り給えば、腹の皮まで切りぬいて、さすがの臥煙も、夢心地、かっぱと伏して息絶えたり。悪党とは言いながら、無残なりける最後なり。

然る処、駕籠かきども木陰に忍び、胴震いして、うろたえける。日本左衛門透かし見て、うぬらも臥煙が供をさせんと、血刀を振り廻しければ、大地に伏し手を合わせ、歯の根もあわず震いける。日本はこの有様を見て、つくづく咎なき者、助けてくれんという内に、駕籠かきは一散に行方知れず逃げ失せける。日本可笑しく思いながら、刀をふき、さやに納め、それより上新家へぞ帰りける。

その後、見附、袋井宿にて厄病神か鬼神かと、怖じ恐れし事なれば、気味よき事と申しける。一言坂という処に、臥煙塚とて石を残しけりとなり。
※ 怖じ恐れる(おじおそれる)- ひどく恐れる。おびえ恐れる。

日本左衛門並び中嶋順助という者と、なれ合いの事

かくてかの日本左衛門は、上新家村甚兵衛方に忍び居て、所々へ押込強盗に出る。その間には、博奕を業(わざ)とし、順助とも折節出合い、互いに心安くなりて、押込などの様子を咄し候えば、これを聞いて順助も、さてもうまき事かなと思い、終には仲間となり、見附宿に徘徊致す。
※ 折節(おりふし)- 時々。時おり。時たま。

順助は紀州様の七里役なれば、見附宿に役所を立て、住居いたし、常々役儀を笠に着て、衣服、大小過分の風俗いたし、宿々を、ねだり、ゆすりを言い懸け、かれこれ以って宿々の害に成る故、問屋役人、旅宿屋、商人まで、皆おじ恐れ、おのづからおごり威勢をふるいける。
※ 笠に着る - 権勢のある後援者などを頼みにしたり、自分に保障されている地位を利用したりしていばる。
※ 威勢(いせい)- 人を恐れ従わせる力。


さてまた、日本は見附宿に女房を囲い置いて、徘徊致しける。その後、在々所々の取沙汰、この頃は見附宿に盗人の宿有りと、風聞まち/\なり。然れども、慥かにそれというものなし。然る所に、日本は順助となれ合い、互いに威勢をふるいしまゝ、宿々在々に至るまで、諸人の難義と成る。

さて又この節、博奕の詮義強く、浜松、見附、袋井、掛河辺りまで、きびしく御吟味御座候故、月待日待と言えども、宿をする者一人もなし。さすが日本左衛門も、これには困り入り、この事、順助に咄しければ、成る程それには思案有り、必ず御苦労に思し召すなと申して、そのまゝ一書を認め、宛書きを問屋へ申し付け、袋井宿問屋の役人へ、早速に持参致すべしと申す。
※ 月待(つきまち)- 陰暦で月の17日・19日・23日などの夜、月の出るのを待って供物を供え、酒宴を催して月を祭ること。
※ 日待(ひまち)- 近隣の仲間が集まって、特定の日に徹夜してこもり明かし、日の出を拝む行事。


御役人御逗留成られ候その宿に、

今晩なぐさみこれ有る由、聞き出され、参りたく申され候に付、御世話ながら、相応に御申し付けられ候て、不自由のなき様に頼み入り候、以上
※ なぐさみ - (文脈からして、)手慰み。ばくち。
                   見附宿
                     中嶋順助印
     袋井宿
       問屋役人中

一 袋井宿問屋役人中、申す様、これは有るまじき手紙と思いしが、かの順助が威勢に恐れ畏こまり候と、返事致しける。 これに依り、日本は不自由成る事もなく、中食など好んで馳走に合い、これも一途に順助が不敵者故なり。

日本左衛門、強盗押込みに出る、装束、狼藉の事

かくて、日本左衛門は八ヶ国の強盗の長本と成り、上見ぬ鷲のいきおい、傍若無人のおごりに長じ、昼夜美食を好み、身には綾羅の錦を着し、金銀をちりばめ、仮初の遊び、博奕場へ行く時も、帯刀、若党、ぞうり取りまで、あっぱれ歴々の方々を見る様なり。不敵成りける次第なり。
※ 長本(ちょうほん、張本)- 悪事などを起こすもと。また,その人。張本人。首領。
※ 傍若無人(ぼうじゃくぶじん)- 人のことなどまるで気にかけず、自分勝手に振る舞うこと。また、そのさま。
※ 綾羅(りょうら)- 綾衣(あやぎぬ)と薄絹(うすぎぬ)。また、美しい衣服。
※ 仮初(かりそめ)- その場限り。ちょっとした。
※ 帯刀、若党、ぞうり取り - 武士の外出時の作法であった。


夜に入り押し込みに行く、その出で立ち、装束と申すは、大将分の者どもは、皆一様の黒装束、兜頭巾にぶつさき羽織。日本左衛門が装束と言うは、紫琥珀の衣装、ぶつさき羽織は赤地の金襴の半えりをとり、兜頭巾は金襴のへりをとり胸懸け、上帯、小手、すねあてに至るまで、皆一様の赤地の錦、光りかゞやき、御用と書いた高張り丁ちんを燈し、将床(床几)に腰をかけ、左右に若党、ぞうり取りを付け置きて、差図致し候。誠に前代未聞の強盗の長本なり。
※ ぶつさき羽織 - 武士が乗馬や旅行などに用いた羽織。背縫いの下半分が割れ、帯刀に便利。背割(せわり)羽織。
※ 琥珀(こはく)- 琥珀織りのこと。縦糸が密に並び、横糸がやや太く、布面に横うねのある平織りの絹織物。
※ 金襴(きんらん)- 綾地または繻子地(しゅすじ)に金糸で文様を織り出した織物。
※ へりをとり - 縁取る。
※ 胸懸け(むなかけ)- 胸当て。江戸時代の火事装束の一つ。胸を保護するもの。


さてまた、ここを立ちのき、かしこへ参られ、下知をなし、まねき集むる手下の者どもには、色々と異名を付け、先ず弟分の大将は、かの上新家村の甚兵衛を遠州左衛門と申すなり。その外、次信、忠信熊坂長兵衛、金毘羅源八、今弁慶赤池法院、小ざる伝右衛門、ほう白長治など、異名を付けて呼びける。その外。手下餘多あり。この後、召しとられし者ばかり印し置くなり。ほう白長治というやつは、不思義なる身がるにて、高垣飛びこす早わざ、天上板にひたと付き、その外小鳥の飛ぶがごとくなり。よって、頬白(ほおじろ)と名付けたり。
※ 下知(げち)- 上から下へ指図すること。命令。
※ 次信、忠信-源義経四天王、佐藤継信、佐藤忠信から取った異名。
※ 熊坂長兵衛 - 熊坂長範のもじり。


さて富貴なる家を目掛け、押し込みに参る時には、手下の悪党呼び集め、四、五十張り
の丁ちん持たせ、押し込みに入ると、残らず火を燈し、きゝ(輝々)めく事、冴え行く星と争いけり。入り込まんとする家の外面に、将床(床几)置かさせて、腰打ち懸けて下知すれば、皆々込み入り、家内の者臥たる所に、脇指をぬいて差し付け、聲を立てれば一えぐりとおどし懸け、その外、手向う者あらば、則座に切って捨つべしと、手下の者に下知をして乱入、夫婦の者に縄をかけ、金の有り所を申すべしと、非道に言いて責めければ、是非もなき事かなと、涙ながらに申しける。日本、笑みを含み、金を残らず奪い取る。合図の知らせに、手下の者は、一同に足を早めて出て行く。

さてさて、この様なる盗人は、異国にも稀なるべし。在々富貴の人々は、枕も付かず、心の休むひまぞなし。明け暮れ恐れ悲しむ事、幾萬人の難義とも、算(かぞ)え兼ねたるばかりなり。
※ 枕も付かず - 安心して寝ることが出来ない。

日本左衛門、手下同士打ちの事、並び小笠原土丸殿、検使の事

かくて日々物騒がしき、遠州、近江、三河辺、諸人、在々宿々、山の奥、穏やかならざる事どもなり。

頃は延享三丙寅(1746)四月下旬、掛河宿より南に当り、満水(たまり)坂という所、横須賀の城下近く、掛川領分の堺、腹摺(はらすり)峠という所、殊の外淋しき所なり。この先に満水坂と言う所にて、日本が手下の盗人ども、三人集り喧嘩をぞ致しける。折から横須賀の人、通りかかり、何者なるぞと窺い見れば、これぞ日本左衛門が手下の者ども成るべしと、木陰に忍び聞きしかば、わずか金子壱歩(分)ばかりの配分金、弥々(いよいよ)互いに掴み合い、一人の奴が大脇指を引き抜き、則座に二人を切り倒し、跡をも見ずして逃げて行く。木陰に忍び聞き居る人は、早々急ぎ行きにける。

手負い弐人は半死半生、近所の者に見付けられ、早々名主へ申し出、大勢その場へ立ち寄りて、何方の者なりと改めけれども、一言の答もなし。相手知れねば早々に御地頭所へ訴え出、地頭役人御聞き届け、見使を差し越し、その村へ御預け、この者どもは詮議有りと、養生仰せ付けられて、江戸御屋鋪へも御申し越されし趣なり。

手負い弐人は、段々に平愈致し候えば、御地頭、小笠原土丸様へその由を申し上げ候えば、その両人召し連れ参るべしと仰せられ、村役人両人を引き連れて、御白洲へぞ出でにける。前後の始末、段々に御吟味なされ候えば、両人の者どもは、私ども兼ねて無宿者ゆえ、盗人の仲間入り仕り、少々配分企ての事に付、口論致し候と、己が罪を申し上げ、兎角いつわり申しても、所詮命は亡きものと、有り様に申し上げ候なり。
※ 小笠原土丸-掛川藩小笠原家第三代藩主、小笠原能登守長恭(ながゆき)、土丸(ひじまる)は幼名。延享元年(1744)、五歳で藩主となる。この延享三年はまだ七歳であった。日本左衛門横行の取締りが出来ず、懲罰的に、同年九月、陸奥棚倉藩へ移封を命じられた。
※ 有り様(ありよう)- 実際にあったとおりの状態。ありのまま。ありてい。


御役人中、聞き届け、それは仲間の同士打ちなり。殊に無宿と有るなれば、吟味に及ばず、追い払えと、御役所を引き出し、何国へなるとも早く行けと有りければ、弐人の盗人、 毒蛇の口をのがれたる心地してこそ、逃げて行く。

その後、日本左衛門、右の次第を聞き及び、心の内に思うには、さてこの三人悪人なり。欲深きこそ危うけれと、上新家村甚兵衛に相談致す。右掛河の様子逐一に咄し聞かせ候えば、誠に千丈の堤も蟻の穴より崩るゝなり。兎角こやつ三人を呼び寄せ、人知らず切捨つべしと申しける。甚兵衛、成程至極せり。拙者に任せ成らるべしと、新家村へぞ帰りける。
※ 至極(しごく)- 他人の意見などをもっともだと思って、それに従うこと。納得。

さてそれより、かの三人を呼び寄せて、色々意見を致し、互に和睦致させ、三人の者どもは、見附、袋井辺へ立ち帰る。その後甚兵衛は、さぎ坂原に大かみ谷と言う所有り。ここに落し穴を拵え置き、日本左衛門方へ参り、委細様子を咄しける。それはよく御工面成ると、示し合わせ、急に右三人を呼び寄せ、その方達は急に呼び寄せ候事、余の義にあらず。今晩、日本殿、山梨子(やまなし)辺りへ急に参られ候に付、不案内故、その方達を頼みくれよと申され、随分穏便に致したき由、申されける。

三人の者ども畏まり候と申して、見附宿へ参り、日本左衛門に申す様、我らども、今日、上新家甚兵衛殿方へ呼び寄られ、段々様子承り、只今参上仕ると申しける。日本兼ねて承知の事なれば、それは大儀にて参られたりと、先ず茶漬けなど振まい、頼みけるは今宵山梨子辺りへ急用有り。その方達を相頼み参りたく存じ候。この道筋は殊の外淋しき道なる故、跡よりそろ/\来るべし。この方、道にて待ち合わずべし。大勢にては人目あり。大かみ谷まで参る由、申し置き、小ざる伝右衛門を召し連れ、さぎ坂原へと急ぎ行く。

程なく戌の刻にもなりぬれば、右三人の者どもは、大かみ谷にて追い付きたり。日本申しけるは、これからは大かみ谷とて、夜分は犬ども多く居る所なり。皆々火縄の用意有りやと尋ぬるに、如何にも仕度致したりと火打ち取り出し、火の用意致す所を見すまして、後ろより大袈裟に切って、穴へぞ蹴り込んだり。

残る弐人はおどろいて、一散に逃げ行く所を、小ざると言う草履取り、飛びかゝつて切り付ければ、小鬢より肩先かけて切たおし、よろめく所を、日本掛け付け、首をころりと打ち落し、これも穴へぞ、投げ込んだり。残る一人は仕合わせと、毒蛇の口をのがれたる心地にて、寺谷村へ逃げて行く。余りうろたえ、大崖より、まっ逆さまに、どっと落ち、目玉抜け出で死してけり。
※ 小鬢(こびん)- 頭の左右前側面の髪。びん。

さて又日本左衛門は、同類手下の者どもを、己が心に合わざれば、人知らず打ち切りける事餘多あり。依って、多くの人の思い積りて、ついにかばねをさらすと、なりにけり。 さて又右三人の盗人どもを召し取りし節、不吟味に追い払いし事、後に小笠原土丸殿、不首尾なる事、役人の不調法とは言いながら、国替えと成る事の残念なる事、是非もなし。

遠州豊田郡向笠村中村、百姓三右衛門、江戸表へ訴え出る事

一 花房三十郎殿御知行所に、向笠村三右衛門という内福成る者あり。子供多く有る、その内に養子娘有り。この娘至って器量勝れたる生れにて、諸事発明者なり。然るに、掛河近所大池村惣右衛門と言う内福なる百姓あり。この所へ三右衛門が娘を婚礼致させけるに、その後惣右衛門方へ、押込強盗四五十人押し込み、金銀衣類残らず奪い取り、それ故、女残らずなぐさみ、誠に傍若無人、言語道断なる事どもなり。亭主をも後手にしばり、目前にて右の狼藉、これ残念止む事を得ず、
※ 内福(ないふく)- 見かけよりも内実が豊かなこと。内証の裕福なこと。また、そのさま。

この由、三右衛門に告げられけるに、三右衛門これを聞き、さてさて不届き成る悪党ども、無念骨髄に徹し、昼夜忘れず、種々工夫を巡らし、江戸表へ出るべきと、同村治兵衛という組頭有り、この者と相談にて、則ち件の訴状を認め、この者同道にて、江戸表へ出訴の文章、左のごとし。

  恐れながら書付を以って願い上げ奉り候
一 遠州見附、袋井宿の内に、強盗ども餘多入り込み、徘徊いたし、この節、他国よりも盗人大勢入り込み罷り在り候。この長本、尾張重右衛門と申す者、只今、異名日本左衛門と申す強盗にて御座候。この者ども在々近辺、内福なる者の所へ、手下の者、四五十人引き連れ、一組/\に頭を立て、大小を指し、その外手下の者ども一腰ずつ指し、日本左衛門義、若党、草履取りを召し連れ、手ごとに提灯を持ち、押し込みける。その道筋家々の門口には、ぬき身を持たせ、五六人番を付け置き候ゆえ、その威勢、中々手向う者御座なく候。右強盗残らず押し込み候時は、家内のものに縄を懸け、金銀衣類の有る所へ案内致させ、残らず奪い取る。言語道断なる義に御座候。

右の者ども、見附宿に住居いたし候義、慥に見届け申し候。偏えに御威光を以って、御召し取り成し下され候わば、有難き仕合わせに存じ奉り候。当国の内、金銀、衣類取られ候儀、左に相印し申し候。次に申し上げ奉り候は、他国の儀は存じ申さず候。

                    掛川領分
一 金千両、並び衣類六十品余り      大池田   宗右衛門
一 金拾壱両、並び質物取り置き候分、衣類百廿品余り
                     向笠村   甚七
一 金六十両、並び衣類          サギ坂西村 大珍寺
一 金千両、並び衣類           山崎村   丑之助
一 金四百両。銭共々           片瀬酒屋  弥次兵衛
一 質物衣類、蔵有り切り         山梨子   才兵衛
一 金三十両余り、並び衣類三十品余り   持広村   小右衛門
一 金三十両、銭三貫文          野部村   一雲齊
一 金三十五両、並び衣類、脇指二腰    平松村   忠四郎
一 金五十両、並び衣類、刀、脇指三腰   赤池村   源兵衛
一 金五両、並び衣類           寺谷村   権重郎
一 金壱両弐歩、並び衣類         小嶋村   平重郎
一 金五両、銭四貫文余り         気賀村   次兵衛
一 衣類弐十八品、脇指二腰        深見村   金右衛門

右の外、在々にて穀物、衣類、諸道具などに至るまで、盗み取られたる物、筆紙に尽くし難く候。


この事、御地頭様へ御訴え申し上げたく存じ候えども、同類手下、親類もこれ有り候間、若し願人相知れ候時は、如何様のあだ、やみ打ち、付け火ばど、甚だ心元なく存じられ、国元にて御訴え申出る者これ無く候えども、所々御役人中、御存知の儀に御座候。何と思し召し候や、一向御詮儀も御座なく、見のがしに成られ候事、貴意を得ず候。
※ 意を得ず - 理解できない。

依って益々押領に罷り成り、日本左衛門を始め、皆々不相応成る衣装にて、金銭を砂の様に遣い捨て、自合宜しき人には、相応に用達て候故、宿々にて誰知らぬ人もなく、所の勝手にも成る故、家々にて馳走致し、いよ/\押領に成り、この日本左衛門義は、知恵深く、力強く、釼術の早業(はやわざ)珍しき盗人なり。別して、他国盗人餘多入り込み、夜も寝られず、在々百姓は不寝番いたし、少しの間も油断ならず、是非なく御訴え申し上げ候。
※ 押領(おうりょう)- 他人の物、所領などを力ずくで奪い取ること。
※ 自合宜しき人 - 自分に都合がよい人。


なおまた、当秋作など御年貢米、払い米にて少々金子才覚致す御上納物など奪い取られ候わば、難義仕るべく、または郷蔵御年貢米など、押し取り仕るべきやと、これまた安気仕らず、よんどころなく御地頭様へ御訴え申し上げ候。
※ 安気(あんき)- 心配がないこと。また、そのさま。

早速御沙汰に及び、仰せ付けられ候には、この節、盗人ども徘徊致し候との事、村々へ盗人見え候わば、鐘、太皷を打ち追い散らし候様に、仰せ付けられ、この儀は中々命掛けにて、致し候者は御座なく、皆々押し込みの者どもは、抜き身を持ち、出合い次第に切り捨て候様子にて、誠に忠臣蔵夜討の狂言と等しく、声立てる人は御座なく候。盗人どもすべて隠れ忍び候事、少しも御座なく候。

この節は、伊勢、近江、尾張、伊豆、駿河など、日本左衛門が手下の者ども、餘多これ有り候由、承り候。遠州の盗人の義は、前書申し上げ候通りに御座候。この義、御大名方御領分の内は厳しき御吟味御座候ゆえ、盗人ども宿致すは御座なく、依って御代官、御旗本様御知行の内に徘徊仕り候。

日本左衛門始め、手下の者どもまでも、武芸勝れ候由、殊に大勢の儀に御座候えば、恐れながら御旗本様方の御国役人衆手勢ばかりにては、御召し取り候義、覚束なく、勿論所々に大勢入り込み罷り有り候間、御大名様方の御威勢にても、暫時に残らず御召し取りの事、計りがたし。それに国本にて御訴え申し上げ候わば、盗人同類、餘多御座候故、早速に御手に入れし儀も計りがたく、是非なく、右の趣、御願い申し上げ候。

御高察の故、御召し取り御吟味下され候様、偏えに御聞き済まし下し置かれ候わば、有り難き仕合わせに存じ奉り候。
 延享三年       遠州豊田郡向笠村
  丙寅の九月三日   花房三十郎百姓 三右衛門 印
            右同断五人組頭 喜八   印
       江戸鉄砲洲永松町二丁目宿 次兵衛  印
 御奉行所様

  恐れながら別紙書付を以って申し上げ奉り候
一 差し上げ候一書、密事の儀、申し上げ候。恐れながら御直覧遊させられ、下さるべく候様、願い上げ奉り候、以上。
※ 直覧(じきらん)- 親しく直接に御覧になること。手紙や文書の脇付(わきづけ)に用いる。

右の通り、願い書を以って、御月番本多紀伊守殿へ、九月三日願い出候。早速御評定これ有り、明昼四つ時、願い人三右衛門を召し出され、夜の八つ時分まで、紀伊守殿、御家老御両人、ひそかに御詮義これ有り、同九日にまた、三右衛門召し寄せられ、御評定の故、盗賊方徳山五兵衛殿組下へ仰せ付けられ、則ち国元へ盗賊方案内致すべく仰せ付けられ、願い人三右衛門は、本所石原、徳山五兵衛殿方まで、御公儀より人を付けられ遣しける。

捕り手吟味の故、遠州表へ出立の事

さる程に、本多紀伊守殿より、願い人三右衛門、同喜八、両人、盗賊方徳山五兵衛殿方へ遣わされ、則ち三右衛門に御対面これ有り、取り手の様子、密々御相談これ有り、捕り手組の内、屈強なる者を撰(えら)み、壱番に磯野源八郎、二番に小林岡右衛門、三番に星野磯八郎、四番に岡野儀八郎、五番に小林藤兵衛。何れも劣らぬ捕り手の五人を呼び出し、三右衛門に引き合わせ、徳山五兵衛殿、三右衛門に仰せ渡され候。

直ちに国元へ出立致し、日本左衛門が有り家を尋ね、捕り手の者は暫し跡より袋井まで罷りたり。その方が注進を相待ち申すべく、兼ねて、右の通り、その意を得奉るべく御申し渡しける。三右衛門委細承知仕り、同十一日出で立ち、捕り方の人々は、跡より姿をやつし、思い/\の出立。同十三日午の刻に、弐人出立いたし戸塚泊り、それより日々に道中急ぎ、

同十七日巳の刻に、袋井宿に着き、武蔵屋三郎右衛門方へ参り、三右衛門、八月十六日見附宿へ行き、知人の方へ立ち寄り、日本が有り家を尋ね聞き届け、それより我が在所へ立ち帰りける。明朝、袋井武蔵屋方へ参り、各々方に御目にかかり、跡より出立の方々、武藤屋方まで御着きになられ、御評定の上、申しけるは、日本左衛門は昨日見附宿横町万右衛門方に、博奕致し罷り有る由、承り候。今日は如何候や。彼は女房なども囲い置き候様子、得と承り候。大方この妻の方に罷り在り候儀必定、相違有るまじくと申しける。

捕り手の人々、汝が、日本が有る家、慥に見届け案内次第、寝込みへ押し寄りからめ取るべし。いざ何れも支度致されよと、ひしめきければ、小林藤兵衛申すには、そこつなり。各(おのおの)日本左衛門とも言う悪党、女房の家に居ると言うとも、相応の覚悟、抜け道、その外たくみ、謀事(はかりごと)多く致し置くべし。殊に夜中、猶もって危うし。当所不案内の我々、先々これはよく/\相談有るべし。
※ ひしめく- 大勢の人が1か所にすきまなく集まる。また、集まって騒ぎたてる。

それがし存ずるには、日本という奴、世間はゞからず、白昼にも往来致す由、先だって聞き及ぶ。明日居所を尋ね、白昼にて致すべし。何程の大力、樊噲が勢いを振い候とも、彼は天命、我々は上意の御威光を以って召し取らん事、方寸に有り。如何思し召し候やとて、その夜は更け行き止りけり。
※ 樊噲(はんかい)-中国、漢初の武将。劉邦(漢の高祖)に従い、鴻門の会で項羽により危地に立たされた劉邦を救った。漢の天下統一後も軍功をたて、舞陽侯に封ぜられた。
※ 方寸(ほうすん)- 胸の中。心。


徳山五兵衛殿より、加勢として与力同心遠州へ遣さる事

御月番紀伊守殿、思し召されけるは、この度の盗賊の儀、三右衛門が訴えの趣、皆々帯刀致す由、多分浪人のあぶれ者成るべし。先だって差し越し候捕り手、わずか五人、小勢にて賊人ども大勢徒党致さば、心元なしと、同九月十四日御評定これ有り、徳山五兵衛殿へ仰せ付けられ、今日中に遠州表へ加勢を遣すべしと有りける。

直ちに屋敷へ立ち帰り、屈強の者、与力堀内重次郎、同心立田孫助、山口藤太夫、佐藤久兵衛、都合四人の者、仰せ付けられ、早速支度致し、十五日出立にて藤沢宿泊り、この所問屋役人召し寄せられ、御用に付、この封状並び切紙壱通、遠州袋井宿問屋まで、急用これ有り、申し遣し候。早飛脚を以って、滞りなく遣しべしと申し渡す。

同十七日未下刻、袋井宿問屋へ相届き、問屋役人、御状の趣拝見致す。江戸御奉行御用と上書にあり、磯野源八郎殿、小林岡右衛門殿と御座候。切紙の文言、
※ 未下刻(ひつじげこく)-「未」は13時から15時。それを上中下三分割して、「未下刻」はおおよそ午後2時20分から3時頃。
※ 切紙(きりがみ)- 古文書学で,私的な正式でない場合に用いられた小型の文書のこと。縦,横に適宜に切られて用いられたことからいう。書簡や軍事的な連絡に用いた。


先だって、その宿、武蔵屋三郎右衛門方に旅宿致すべき由、如何候や。もしその宿に逗留これ無く候わば、見附宿の内、旅宿相尋ね、早々この状相届け給うべく候。相違なく頼み入る。
            江戸本所
               徳山五兵衛役所より
 九月十五日   遠州袋井宿
   酉ノ上刻    問屋役人中
※ 酉ノ上刻-17時から17時40分ごろ。

右の御封状並び御切紙、則座に武蔵屋三郎右衛門方へ持参致し、小林岡右衛門殿へ相渡し、先達して、取り方役人残らず打ち寄り、拝見致され候。その文言。
※ 先達(せんだつ)- 道などを案内すること。案内人。また、指導者。

一 この度、その表、人無き故、相談の故、加勢として、与力同心四人遣し候。堀内重次郎、立田孫助、佐藤久兵衛、山口藤太夫、この人数差し加え、各々手柄致さるべく候。
               徳山五兵衛役所
 九月十五日酉上刻
        小林岡右衛門殿
※ その表(そのおもて) - 「表」は江戸幕府または大名家で、公的な事務や儀式をする所。「その表」はその方の役所。

右の書状、各々拝見致され、評儀まち/\なり。

磯野源八郎殿申され候は、跡より加勢の人々、明後日参着有るべし。我々ども先だって撰び出され、跡より加勢を相待ち候ては、卑怯至極、なおまた、延引に相成り、悪党ども耳に入り、風を食うて逃げ失せ候わば、万代の無益なり。
※ 卑怯(ひきょう)- 勇気がなく、物事に正面から取り組もうとしないこと。また、そのさま。

今宵の内に押し懸けからめ取る事、然るべきと、各々至極承知致され、先だって願人三右衛門申すには、この所に伊之助と申す博奕打ち御座候。この者は日本とも日頃、心安く附き合いなど致す者に御座候と申す。依ってこの者を呼び寄せ、日本左衛門を見届け申すべきと仰せ付けられ、

則ち伊之助義、日本左衛門手下の者まで、得と存じ罷り有り候。私義世渡りの為、博奕仕り候。何分この度の義、御奉公相勤め、御手に入れ申すべし。私隣家に、平五郎と申す者御座候。この者同道にて、見附宿、日本左衛門が有り家を見届け、早々御注進仕るべくと申す。

右の両人、見附宿へ急ぎ行き、さてまた、その夜、日本は紀州様の七里役所、中嶋順助方に居たる事、慥に見届け、袋井へ立ち帰り、江戸御役人中へ御訴え申し上げ候。捕り手衆中、紀州御役所とあれば不遠慮にふみ込む事相ならず、外へ出たる節を見届け、注進致すべきと申す。直ちに平五郎は見附宿へ帰りける。

明廿日の夜に、横町万右衛門と言う者の方に、庚申待ちこれ有り、博奕始まり、日本始め手下の者ども集り、勝負致しける所を、伊之助見届け、そのまゝ袋井宿へ御注進申し上げる。捕り手衆中、問屋役人呼び出し申し渡し、この度我々ども、番所へ来る事、御公儀より御尋ねの儀に付、今晩見附宿へ罷り越す。依って随分達者成るものども、弐三拾人出し申しべきと仰せ付けられ、早速人足を出し、直ちに見附宿へ、問屋役人残らず御案内をぞ致しける。

折節、天気悪しく、誠に目さきも知れぬ真っくらやみ、捕り手の人々、忍び出で立ちゆえ、燈灯(ちょうちん)なども付けずして、漸々、戌の下刻に見附宿へ着く。今宵大勢捕り手の来る事、かつてしらず、捕り手は万右衛門が居宅表裏より、屈竟の捕り方追取巻(おっとりまき)今か/\と固唾(かたず)を呑み待居りたり。
※ 戌の下刻(いぬのげこく) - 午後8時20分から午後9時ごろ。

先ず壱番に、小林岡右衛門、続いて小林藤兵衛、この両人釼術の達人にて、その時の装束は、南蛮鎖を着込みにして、和泉守金定の脇指に、肥前守忠廣の刀を家来に持たせ、壱番に内に入り、かの悪者どもは大蝋燭を燈し、今を盛りと勝負を争い余念なく居たる所へ、取り手の両人、日本を目がけ、御上意なりと呼ばわって飛び込む間に、蝋燭を吹きけし、早業の機転勝れし日本は、横手の壁をつきぬいて、行衛知れずに逃げ失せたり。
※ 南蛮鎖(なんばんぐさり)- 南蛮鎖を使った鎖帷子。防御用に着込む。防弾チョッキの刀用と考えればよい。

日本左衛門、壁をつきぬき取り逃したりと、高音に呼ばわりければ、裏表の人足ども皆一同に声をあげ、それ逃すなと謂う声に、町内近所目を覚まし、何事成るかと驚き騒ぐ所へ、御上意の捕り手方と聞いて、それよりなお、町中大騒ぎ、燈灯、松明、星のごとく、男たる者残らず出、その近辺、小道、畑中、井戸、雪隠、物陰、木の下、堵手(どて)、井溝(いみぞ)、残らず皆々尋ぬべしと、下知の下る。
※ 高音(こうおん)- 大きな声。

その間に同類拾壱人、からめ取る。中にも頬白長次という奴は、片すみに隠れ居て、博奕場の金銀を暗まぎれにてかき集め、逃げ行く所を、小林藤兵衛飛び懸りて、追い伏せて縄掛けける。さて万右衛門家内は、近所、二階、縁の下、襖、物かげ、残りなく尋ねけれども、行方知れず。

宿役人へ申し付け、見附中残らず家捜し致すべきと、問屋・年寄、皆々付き添い、たんす、長持、小袖ひつ、桶ひつ、戸だな、薪部屋、井戸、雪隠に至るまで、尋ね捜せど見えざれば、縄付きの内、鬼長兵衛、小随源八、万右衛門を引き出し、汝ら日本が同類たる事、殊に博奕の宿など致し、甚だ以って科(とが)重し者ながら、今取り逃したる日本が行衛を尋ね出すならば、その科を許すべし。若しまた隠し置くに於いては、その百層倍のとが成るべし。
※ 問屋・年寄 - 宿役人には、問屋役を筆頭に、年寄、帳付、人足指、馬指、迎番などがいた。
※ 小袖櫃(こそでひつ)- 小袖を収納した蓋付の大型の木箱。


如何心意候と申しければ、三人口を揃えて、我々ども一命を御助け下されば、山海の底峰までも、命かぎりに尋ね出し、御手に入れ申すべしと、慥に受け合い申すにより、三人は縄を許し、早速その夜中に大草太郎左衛門殿役所へ、人足五拾人申し遣わされ、右三人の者どもに案内致させ、日本が常々入り込む村々へ尋ねにこそは行きにける。
※ 心意(しんい)- こころ。精神。
※ 大草太郎左衛門 - 代々、見附、中泉代官。


かくて行衛知れざれば、小随源八申しけるは、これより一里ばかり先、大久保村に日本が家老、岩渕弥七と申す者御座候。またこの道筋、戸市、定右衛門と申す者御座候。この者どもに案内致させ、弥七を尋ね成さるべしと申すに依って、戸市、定右衛門に呑み込ませ、早速弥七が宅へ急ぎ行く。
※ 家老(かろう)- 江戸時代,商家で家務を総括する手代。

磯野源八郎殿、小林藤兵衛殿、この二方は右の者より少し跡に参られ、弥七が門口に待ち居りける。戸市、定右衛門、今夜参る事、余の儀にあらず、日本殿、見附万右衛門方にて博奕始まり居りたる所、江戸表より捕り手の衆中、大勢入り込むと、蝋燭吹きけし逃げられたり。外の者は召し捕り、其元(そこもと)の有り家を具(つぶさ)に訴え致す者これ有り。今にも押し掛け参るべし。一刻も早く、何方へ成るとも、逃げられて宜しきかるべしと言う。岩渕弥七、大きに驚き、さてさて御親切、忝けなしと一礼をのべ、早々支度し、定右衛門と同道致し門口を出る所へ、隠れ居りたる捕り手両人、御上意なりと声掛けて、そのまゝ取って縄打ちけり。

明廿一日、日本左衛門は光明山の方へ逃げ延びし風聞、捕り手人々大勢召し連れ、右縄を許したる盗人どもに案内させ、山中へわけ入りて、木かげ、谷合い残らず尋ね候えども、行方知れず。
※ 光明山(こうみょうざん)- 浜松市天竜区にある標高594メートルの山。かつて、真言宗の山岳寺院、鏡山光明寺があったが、廃寺となる。火伏の秋葉山と水難除けの光明山の両参りが行われた。

是非なく見附宿へ帰り、廿二日、小林岡右衛門、星野磯八郎、伊之助、戸市、小随、この三人を召し連れ、三州の方へ尋ね行く。浜松の入口、天神町という所に、日本左衛門が草履取り、小ざる伝右衛門という者を、伊之助見付けて、則座に縄をかけられたり。小ざるが白状にて、池田村利兵衛、上新谷村甚兵衛が弟、この両人、大家杢之助殿御役所へ申し遣わし、早速召し取る。その外武八と申す者、先だって召しとられたる小ざるが差し口にて、源右衛門、長治、助太、平蔵、その外都合六人取られ候。
※ 差口(さしくち)- 密告。告げ口。

いよいよ日本が行衛知れざる上は、九月廿九日に盗人ども弐拾人、目籠へ入れ、青網をかけ、宿々厳しく江戸御奉行所へぞ引き連れける。

紀州七里役人、中嶋順助召し捕らるゝ事

一 この度、遠州表において、日本左衛門が手下の者ども、御召し捕りの弐十人は、九月廿九日に見附宿より江戸表へ、目籠に入れ出立致し候。道中宿々、堅固の役人、昼夜ともに厳しく番を致しける。則ち十月三日小田原宿に着き仕り候。
※ 目籠(めかご)- 物を入れる、目を粗く編んだ竹籠。

然る所に江戸表より当宿まで飛札を以って申し参る。遠州見附宿、横町万右衛門、太次郎、この両人先だって召し捕り置き候えども、願いに付、縄をゆるし候趣は、日本左衛門を尋ね出し、御手に入り申すべくと申す故、所の役人に預け置き、一札を取り候。
※ 飛札(ひさつ)- 急ぎの手紙。急報。飛書。

さてまた中嶋順助義は、紀州様の七里役人、遠慮致し、江戸表へ御窺い申し上げ候。徳山五兵衛殿御役所より、早速御返事参り、少しも遠慮に及ばず、早々からめ取り来るべしとの御事なり。則ち、かの万右衛門、太次郎、腰縄にて順助宅へ案内致させ、捕り手の両人飛込んで、御上意なるぞと声を懸け、取って追い伏し、高手小手くゝし上げ、順助は夢心ち歯噛みをなし居たりける。紀州の役義も請けながら、一手も合わさず、やみ/\捕られし事、無念骨随に徹し、紀州の御家老へ対し、残念なりと後悔致しける。それより問屋役人に申し付け、目籠に入れ青網をかけ、江戸表へぞ、十月九日出立す。
※ 高手小手(たかてこて)- 両手を後ろに回し,首から肘・手首に縄をかけて厳重に縛り上げること。
※ くくし上げる - 固くくくる。縛り上げる。
※ やみやみ(闇々)- 何もできないさま。みすみす。むざむざ。


さてまた岩渕弥七が白状に依って、中村佐善と言う者有り。この者は京都にて召し捕らるゝなり。先だって召し捕りし賊人ども、本所徳山五兵衛殿へ相渡し、直ちに入牢致しける。明日より引き出し、日本左衛門が有り家を御尋ね、拷問にかけけれども、勝手相わからず、岩渕弥七申し上げる。日本左衛門義、先月廿日の夜、私方へ参り、先だって預け置き候金子、急に入用の筋にて、即、預り金子弐百両、相渡し候えば、そのまゝ懐中いたし立ち帰り候。

また中村佐善事、これは日本が弟分にて、三ヶ年以前、金子三百両、衣類、大小まで支度いたし、尾州浪人と申したて上方へ登り、京都梶井宮様に、宜しく御奉公相勤め候由、承り候。若しこの方へ参り候事も計り難く、この上は如何様に御せめ成られ候とも、一向申し上げ候義、御座なく候。一日も早く御仕置仰せ付けられ候わば、有り難き仕合わせに存じ奉り候。これにより、その日は籠内へ入れられにける。

さてまた、徳山五兵衛殿より本田紀伊守殿へ、弥七白状の趣申し達し、評定これ有り、京都所司代、牧野備後守殿、右の趣、飛札を以って申し遣し候処、早々町奉行を召し寄せられ、右の段、仰せ渡され、早々梶井宮様へ使者を以って、かの佐善を町奉行所へ召し出し、白洲において、
御上意なるぞと縄をかけ、所司代牧野備後守殿へ御訴え、目籠に入れ、青網をかけて、役人弐人、並びに町与力、同心、足軽十六人、外に佐善が贓物、長持に入れ、人足十六人、京都出立つ致し、杖払い四人、その外、問屋年寄、下役人、道中厳しく徳山五兵衛殿へ相渡しける。
※ 贓物(ぞうぶつ)- 犯罪によって他人の財産を侵害し、手に入れた物。盗品の類。贓品。
※ 杖払い(つえはらい)- 近世,貴人の通行などの際,その一行の先に立って先払いをすること。露払い。


先だって入獄致し置き候盗人ども、白砂へ召し出し御詮義の事

一 江戸本所石原。徳山五兵衛殿、御役所において、牢内より盗人どもを召し出し、種々品を替え拷問に懸けせめられける。日本が行え誠に知れざれば、是非なく差し置きになり、その年は月迫に及び、明日、延享四年卯(1747)の正月、民の釜戸(かまど)もにぎわしく、春めき渡る人心、遠州の百姓、町人、宿々に至るまで、心ゆたかに暮しける。
※ 月迫(げっぱく)- 月末。つきずえ。特に十二月末がさし迫ること。

然るに、徳山五兵衛殿、年始御祝儀など相済み、御殿中御儀式相済み、獄人ども種々様々と責めけれども、行方は知れざりける。残り方無しとぞ申されける。

日本左衛門、長門の国より京都へ帰る事

かくて日本左衛門事、去る九月廿日の夜、見附宿万右衛門が所を逃げ出し、夜の内に秋葉山越えに、美濃の国垂井へ出て、長門国まで罷り越し、また伊勢山田古市の女郎屋へ参り候。

先だってなじみし女郎と遊びし所に、何やら人集りて、絵姿を見物す。よくよく聞けば、我が事なり。さてさて日本国中六十余州、浦々嶋々までも人形をもって相尋ね候趣と、大きに驚き、膝を打って身をふるい、先ず人にさとられぬ内にと思い、知らぬかおにて奥座敷へ通り、つくづくと思案し、
※ 人形(ひとがた)- 人相。人相書き。

最早世界に宿も有るまじ。殊に我れ出でざる内は、手下の者ども、日々に拷問に掛けられ、嘸(さぞ)我が行衛知れざる故に、恨み悲しむ事必定なり。また弟分の佐善も、京都にて召し捕られしと聞く上は、逃げかくれ致すも、仲間の者へ義理立たず、一刻も早く名乗りて出ずべしと思い定めて、かの馴染みのあげまきという女郎と、別れの酒を呑まんと、かの揚巻をよび、今更改め申すも気の毒ながら、我が事はこの節、御尋ねの日本左衛門なり。これより直ちに御番所へ名乗り出る所存なれば、今宵この世の別れなりとゆえば、

あげまき涙ながら、年月馴染みし事なるに、知らずになんの居ましょうぞ。とてものがれぬ事ならば、我身を御手にかけられて、ともに死んで未来でそうて下さんせと、たもとにすがりなきければ、日本、共に涙を流し、その方の心底頼もしきし、忝けなし。しかし我はこれまで大悪無道の罪人なり。跡にて回向(えこう)を頼むなり。

我は是より津の町の国府の阿弥陀へ参詣し、西条へ参り、明日ひそかに忍び来たるべし。これを暫く預け置くと、懐中より紫の帛紗取り出し渡しける。名残おしく思えども夜明けの鐘を暇乞いと思いあきらめ、立ち出て両宮へ参詣し、直ちに京都へ急ぎ行く。
※ 国府(こう)の阿弥陀 - 三重県津市大門の恵日山観音寺。津観音と称される観音とは別に、伊勢天照大神の本地仏の阿弥陀三尊が祀られる。「国府の阿弥陀」と称し「阿弥陀に詣らねば片参宮」と伝えられ、参詣者を集めた。伊勢音頭の「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ」の由縁。
※ 西条 - 三重県鈴鹿市西条。伊勢国衙や国分寺などがある。
※ 帛紗(ふくさ)- 袱紗。儀礼用の方形の絹布。進物の上に掛けたり、物を包んだりするのに用いる。


三條通りにて、髪月代を致し、ここぞこの世のはれなるぞと、衣服改め給いける。下に白無垢、浅黄無垢、上に黒羽二重、帯は黄羅紗のはゞ広にて、印籠、巾着、最上のおじめは珊瑚珠、大玉にて、根付け象牙の玉獅子にて、茶羅紗の紙入、脇差まで金銀、後藤の細工にて、さしも立派に出で立ちて、正月六日巳の刻に、町御奉行永井丹波守殿御番所へこそ出でにける。
※ 髪月代(かみさかやき)- 髪を結い月代を剃ること。
※ おじめ(緒締)- 袋物の緒を束ねて通し、口を締めるための穴のあいた玉。緒止め。
※ 後藤の細工 - 後藤彫の彫金は有名であった。


恐れながら申し上げ候意趣は、私義、先だって御尋ねの日本左衛門と申す者に御座候。恐れながら御直談申し上げたき義に御座候て、罷り出で候。御取次下さるべきと申し上げる。与力衆中、聞き届け、早速丹波守様へ申し達しければ、その者白砂へ通すべしと、与力、同心前後をかため、先ず脇指を取り、無腰にて白砂へ召し出され、丹波守、三ツ井下総守、御両所出でられ、日本左衛門とは我が事か、名乗り出る事、神妙なり。
※ 意趣(いしゅ)- 理由。わけ。
※ 直談(じきだん)- 他人を介さないで、直接に相手と談判すること。


何の願い有りけると御尋ねこれ有らば、日本左衛門、我れ去年九月廿日の夜、遠州見附宿にて博奕勝負仕る処へ、江戸表より捕り手の衆中、押し込み候所、漸々逃げ延ぶ。それより段々西国辺へ罷り越し候所、手下の者ども残らず召し捕られ候よし。我出でざる内は、右の者ども、拷問責めなやみ、御宥免有るまじと存じ罷り出で候。一刻も早く関東へ御引渡し、大勢の者ども責めを御許し、御慈悲を以って御成敗下さるべしと願いける。
※ 宥免(ゆうめん)- 罰を軽くするなどして、罪を許すこと。大目にみること。

この趣、所司代、牧野備後守殿へ申し達しける。誠に大悪無道の者なれども、智勇勝れし強盗の長本なり。道に背かぬ者ならば、一方の御用にもたつべき者、惜しき事なりとぞ申されけり。

先ず暫く牢へ遣わし置き、関東へ差し下すべく評義一決して、道中宿々御觸れ流しこれ有り、御所司代より、物頭一組、足軽十五人。両町奉行所より与力、同心、弐人ずつ付け、御用御長持外、挑灯(ちょうちん)持ち、十五人、梢払い(さきばらい)前後四人ずつ、道中休み、泊り、その宿々の役人襷を着して、昼夜ともに厳しく番を致し、遖(あっぱ)れ美々しき召人なり。
※ 美々しい(びびしい)- はなやかで美しい。
※ 召人(めしうど)- とらえられた人。囚人。


同正月廿八日に江戸表へぞ付きにけり。これも本所徳山五兵衛殿へぞ渡されける。

徳山五兵衛殿、日本左衛門に御尋ねの事

かくて五兵衛殿御尋ねの趣、その方生国は何国なりやと有りければ、日本左衛門答ける。私、生国尾張の者にて、始めは重右衛門と申す。また浜嶋庄兵衛と改名仕り候。人々日本左衛門と異名を付け候。久々遠州見付宿近所に徘徊仕る。盗人の頭取仕り、百姓、町家、あり福の家へ手下餘多引き連れ押し取り、金銀衣類奪い取り候儀、相違御座なく候。

これにより、江戸表へ御訴え願われ候人これ有り、御捕り方、去年九月廿日の夜、見附へ御越し、万右衛門家にて壁を突きぬき、一条に秋葉山越え、信州より西国辺へ罷り越し候えども、人相書を以って、諸国一統御尋ね下され、私、身の置き所これ無く、とても遁げれざる事と存じ、去る極月、京都御奉行所へ参上仕り候えども、殊の外、御繁用御取り込みの御様子に相見え候故、差し控え罷り在り候て、当正月六日、永井丹波守様御役所へ罷り出候。三ツ井下総守様御出会いにて、当御番所へ御引渡し遊ばされ候。
※ 一条に(いちじょうに)- 一筋に。
※ 一統(いっとう)- おしなべて。


徳山五兵衛殿御尋ね、その方同類、他国にもこれ有りやと申されける。私同類は皆無宿者にて、何方へ参り候事、勝手相知り申さず候。日本左衛門、逐一(ちくいち)申し上げる。且つ私義、去年九月廿日の夜、遠州見附宿横町、万右衛門方にて逃げ延び、それより秋葉山越え、三州御油宿に泊り、私仲間浪人者これ有り、この所に四五日逗留仕り、博奕打ち申し候。

それより大坂表へ罷り登り、暫く居り、讃岐の金比羅へ参詣仕り、七、八日逗留仕り、何角商売仕るべく存じ、大阪へ罷り帰り候処、私、人相書を以って、国々厳しく御尋ねこれ有り候故、九州辺へ心掛け、長門の下の関まで罷り越し、それより芸州宮嶋へ参詣仕り候処、
※ 何角(なにかど、何廉)- どのような。

これまた人相書相廻り、茶屋にて皆々打ち寄り見る前を、知らぬ顔にて聞く処、ことごとく胸に応え、早々立ちのき、周防の国岩国へ参りて、私懇意の浪人者あり、この者と申し合わせ、海賊仲間へ入るべしと存じ候処、よく/\思案仕り、我一人逃げ延び候とも、大勢の手下、日々に問状責め苦しみ、我れ見えざるを恨み悲しむ事を思い、誠に天命逃るゝ事なしと存じ、一日も早く名乗りて、大勢の者くるしみを除かんと、岩国を立ち出で、
※ 問状(もんじょう)- 答弁を求めるための質問書。

長門下の関へ参り候所、殊の外大風にて、天氣悪しく候ゆえ、日和を見合い、十一月十四日より廿日まで逗留仕り、それより快晴に船に乗り、備後の鞆江(ともえ)と申す所へ着く。極月朔日に大阪表へ着き仕り、暫く逗留致し、江戸表手下の者の御仕置ありやと、我も切腹致すべきと存じ、書き置きに金子も少々相添え、懐中仕り候。

能々承り候えば、今以って御仕置御座なく、我ら出でざる内は、拷問責めやむ事なしと承り、これに依り、片時も早く訴え出申すべきと、早々伏見へ参り、大津へ出、信楽通り、南都へ出、堺へ行き、高野山へ参詣仕り、それより大坂へ又立ち帰り、又々京都へ出、極月廿五日に永井丹波守様御役所御門口まで参上仕り候て、見合い候処、時分柄、殊の外御取り込みに見え候ゆへ、暫く差し控え、

思えばこの世に越年致す事、今年ばかりに候故、大神宮へ御暇乞い仕るべきと、伊勢両宮へ参詣仕り、最早大晦日、外宮の前、旅篭屋に越年仕り、正月二日に出立仕り、六日の夜京都へ着き仕り候。七日に町奉行所へ罷り出候。

右申し上げ候処、一々相違御座なく候。御尋ねの儀、御座候わば、追々御答え申し上ぐべく候。外に悪党御吟味の筋は毛頭御座なく候。御慈悲の思し召しを以って、早々御仕置仰せ付けられ下し置かれ候様、偏えに願い奉り候。以上。
 延享四卯二月二日    浜嶋庄兵衛異名、
                  日本左衛門、歳廿九才。

これより御仕置の事
その後、日本左衛門召し出し御詮義極まり、三月十一日、江戸中を引き廻し、牢内において死罪に行う者なり。その首、遠州見附宿へ送り、獄門に掛け候。その場所坂上に三本松と言い仕置場あり。この所にさらす者なり。
※ 行う -(死罪に)処する。

    異名日本左衛門
          浜島庄兵衛
    平四郎事
          中村佐善
    駿河
          岩渕弥七
    遠州見附宿七里役人
          中嶋順助
    武蔵今弁慶
          赤池法院

右の者どもばかり、獄門も懸かり、その外の者ども、打首死罪に行う者なり。中にも遠島に成る者も有る。日本左衛門、佐善ばかり江戸中引廻し、日本左衛門はその日浅黄無垢を着しける。この節、牢内にて大病相煩い以って日頃の元気さらになし。見苦しき躰なり。

それより、御仕置場にて、私、辞世を申したく、願いければ、役人衆聞き届け、料紙、硯、御取り寄せ、御書付成られ候。

  おし鳥(押し取り)の 人の思いは かさ成りて
    身に青あみの 名こそ残れる

打ち首の者どもの事、並び遠嶋に仰せ付けられ候者ども。

 ほう白 長治郎          小ずい  源次郎
      養益            古着買  太次郎
      平蔵            博奕宿  万右衛門
      源右衛門         草履取  伝右衛門
      金兵衛        右の四人は遠島なり。
右五人の者ども死罪なり。

小笠原土丸殿不首尾の事

一 御領分大池村惣右衛門と言う百姓、富貴なる暮しなり。然る処、御地頭へ御用金、度々仰せ付けられ差上候えども、利金とても下さらず、甚だ難義致し候。その後、盗人ども押し込み、家内の者に残らず縄をかけ、無躰に金子千両程取られける故、早速御地頭役所へ訴え出候処、役人中申されけるは、先だって駿州久能山御普請に付、御手伝い仰せ付けられ候に付、金子入用の筋、その方へ頼みければ、その方、金子持ち合わせこれ無しと言って、御用に立たず。左候えば盗人に取られ候金子はこれ無き筈と、大きに叱り、吟味もこれ無く追い帰され、惣右衛門は是非もなき事かなと立帰り、舅(しゅうと)三右衛門にこの由を具(つぶ)さに咄しける。三右衛門一々聞き届け、さてさて残念なる事なりと、願書を認め、江戸御奉行所へ罷り出で願いける。

その後、土丸殿役人不吟味なる由にて、奥州店倉(棚倉)という所へ国替仰せ付けられ、偏えにこの度の不首尾、役人の不働き、殿に対して大不忠、不届き至極の役人なりと、人々申す事、盗人ども御仕置これ無き内は、五月七日まで閉門仰せ付けられ候。
※ 土丸殿 - 掛川藩小笠原家第三代藩主。小笠原能登守長恭(ながゆき)。当時、幼君であった。

遠慮仰せ付けられ候事

 相良            横須賀
一 本多越中守殿       一 尾隠岐守殿
 吉田            浜松
一 松平伊豆守殿       一 松平豊後守殿
右盗賊ども、御仕置きこれ無き内、三日ずつ遠慮差し控え仰せ付けられ候

一 遠州向笠村、百姓三右衛門、江戸御奉行所へ御訴え申し上げ、早速御聞き届け、遠州の盗人ども、御威光を以って御召し捕り、根を断ちて葉をからし、誠に御仁徳の有り難き事、万民の悦び、閉ざさぬ御代となり、太平楽を歌う声々、国々村々みち/\けり。先だって召し捕られたる盗人どもを徘徊致させ候、村々の名主、組頭、退役仰せ付けられ、過料として、名主は拾貫文、組頭は五貫文、五人組の壱組へ弐貫文ずつ、仰せ付けられ候。又押し込みに合い候村、早速訴え出ず、またはかくし居り候名主は手錠、組頭は七日ずつ閉門仰せ付けられける。誠に前代未聞の事どもなり。
 文政十三年        孝念 
  庚寅の二月        これを写す。


  遠州郷土資料
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