宇治拾遺物語 一一九 吾妻人生贄(あづまびといけにへ)をとゞむる事[巻一〇・六]   (現代語訳)



今は昔山陽道美作国に中山高野と申す神おはします。高野は蛇中山は猿丸にてなんおはする。その神年毎の姿に必ず生贄を奉る。 人の女の容貌よく髪長く色白く身形をかしげに姿らうたげなるをぞ撰び求めて奉りける。昔より今に至るまでその祭怠り侍らず。

それにある人の女生贄にさし当てられにけり。親ども泣きかなしむ事限りなし。人の親子となることは前の世の契りなりければ怪しきをだにも疎かにやは思ふ。 況して万づにめでたければ身にも増りて疎かならず思へどもさりとて逃るべかなれば歎きながら月日を過ぐすほどに。やうやう命つづまるを親子と逢ひ見んこと今いくばくならず。 と思ふに付けて日を数へて明暮はただ音をのみ泣く。

かかるほどにあづまの人の狩といふ事をのみ役として猪といふ物の腹立ちしかりたるはいと恐ろしき物なり。 それをだに何とも思ひたらず心に任せて殺し取り食ふことを役とする者のいみじう身の力強く心猛くむくつけき荒武者の自づから出で来てそのわたりに立ち廻るほどにこの女の父母の許に来にけり。

物語する序に女の父の云ふやう。 己が女のただ一人侍るをなんかうかうの生贄にさし当てられ侍れば思ひ暮らし歎き明してなん月日を過ぐし侍る。世にはかかる事も侍りけり。 前の世にいかなる罪を作りてこの国に生れてかかる目を見侍るらん。かの女子も。心にもあらずあさましき死にをし侍りなんずるかな。と申す。 いと哀れに悲しう侍るなり。さるは己が女とも申さじ。いみじう美しげに侍るなり。と云へば東の人。さてその人は今は死に給ひなんずる人にこそはおはすれ。 人は命に勝る事なし。身の為にこそ神も恐ろしけれ。この度の生贄を出ださずしてその女君を自らに預け給ぶべし。死に給はんも同じ事にこそおはすれ。 いかでかただ一人持ち奉り給へらん御女を目の前に生きながら膾に作り切り広げさせては見給はん。ゆゆしかるべき事なり。さる目見給はんも同じ事なり。 ただその君を我に預け給へ。と懇ろに云ひければ。実に目の前にゆゆしき様にて死なんを見るよりは。とて取らせつ。

かくて東人この女の許に行きて見れば容貌姿をかしげなり。愛敬めでたし。物思ひたる姿にて寄り臥して手習をするに涙の袖の上に懸かりて濡れたり。 かかるほどに人の気はひのすれば髪を顔にふりかくるを見れば髪も濡れ顔も涙に洗はれて思ひ入りたる様なるに人の来たればいとど慎しげに思ひたる気はひして少し側向きたる姿誠にらうたげなり。 凡そ気高く品々しうをかしげなる事田舎人の子と云ふべからず。東人これを見るに愛なしき事云はん方なし。

されば。いかにもいかにも我が身なくならばなれ。ただこれに代りなん。と思ひてこの女の父母に云ふやう。思ひ構ふる事こそ侍れ。 もしこの君の御事に依りて亡びなどし給はば。苦し。とや思さるべき。と問へば。子の為に自らは徒らにも成らばなれ。更に苦しからず。 生きても何にかはし侍らんずる。ただ思されんままにいかにもいかにもし給へ。と答ふれば。 さらば。この御祭の御きよめするなり。とて注連引き廻らしていかにもいかにも人な寄せ給ひそ。またこれに自ら侍りとな人に努々知らせ給ひそ。と云ふ。 さて日比籠り居てこの女房と思ひ住む事いみじ。

かかるほどに年比山に使ひ習はしたる犬のいみじき中に賢きを二つ撰りてそれに生きたる猿丸を捕へて明けくれやくやくと食ひ殺させて習はす。 さらぬだに猿丸と犬とは敵なるにいとかうのみ習はせば猿を見ては跳り懸かりて食ひ殺す事限りなし。

さて明けくればいらなき太刀を磨き刀を研ぎ劔を設けつつただこの妻の君と談種にするやう。あはれ前の世にいかなる契りをして御命に代りて徒らになり侍りなんとすらん。 されど御代りと思へば命は更に惜しからず。ただ別れ聞こえなんず。と思ひ給ふるがいと心細く哀れなる。など云へば女も。誠にいかなる人のかくおはして思ひものし給ふにか。 と云ひ続けられて悲しう哀れなる事いみじ。

さて過ぎ行くほどにその祭の日になりて宮司より始め万づの人々こぞり集まりて迎へに喧騒りきて新しき長櫃をこの女の居たる所にさし入れて云ふやう。 例のやうにこれに入れてその生贄出だされよ。と云へばこの東人。ただこの度の事は自らの申さんままにし給へ。とてこの櫃に密に入り臥して左右のそばにこの犬どもを取り入れて云ふやう。 己等この日比いたはり飼ひつるかひありてこの度の我が命に代れ。己らよ。と云ひて掻き撫づれば打うめきて腋にかひそひて皆伏しぬ。また日比研ぎつる太刀刀皆取り入れつ。 さて棺の蓋をおほひて布して結ひて封付けて我が女を入れたるやうに思はせしてさし出だしたれば桙榊鈴鏡を振り合はせて前駈おひ喧騒りて持て参るさまいといみじ。

さて女これを聞くに。我に代りてこの男のかくしていぬるこそいと哀れなれ。と思ふにまた。不意に事出で来ば我が親たちいかにおはせん。とかたがたに歎き居たり。 されども父母の云ふやうは。身の為にこそ神も仏も怖ろしけれ。死ぬる事なれば今は怖ろしき事もなし。同じ事をかくてをなくなりなん。今は亡びんも苦しからず。 と云ひ居たり。 かくて生贄を御社に持て参り神主祝詞いみじく申して神の御前の戸を開けてこの長櫃をさし入れて戸を本のやうに鎖してそれより外の方に宮司を始めて次々の司ども次第に皆並び居たり。

さるほどにこの櫃の刀の先して密に穴を開けて東人見ければ誠にえも云はず大きなる猿の長七八尺ばかりなる顔と尻とは赤くしてむしり綿を著たるやうにいらなく白きが毛は生ひ上がりたるさまにて横座に居たり。 次々の猿ども左右に二百ばかり並居てさまざまに顔を赤くなし眉を上げ声々泣き叫び喧騒る。 いと大きなる俎に長やかなる包丁刀を具して置きたり。 めぐりには酢酒塩入りたる瓶どもなめりと見ゆる数多置きたり。

さて暫しばかりあるほどにこの横座に居たるをけ猿寄り来て長櫃の結緒をときて蓋を開けんとすれば次々の猿ども皆寄らんとするほどにこの男。犬ども食へ。おのれ。 と云へば二つの犬跳り出でて中に大きなる猿を食ひて打ち伏せて引きはりて食ひ殺さんとするほどにこの男髪を乱りて櫃より跳り出でて氷のやうなる刀を抜きてその猿を俎の上に引き伏せて首に刀を当てて云ふやう。 吾己が人の命を絶ちその肉を食ひなどするものはかくぞある。己ら承れ。確かにしやくび切りて犬に飼ひてん。 と云へば顔を赤く成して目をしばだたきて歯を真白に食ひ出だして目より血の涙を流して誠にあさましき顔つきして手をすり悲しめども更に許さずして。 己がそこばくの多くの年比人の子どもを食ひ人の種を絶つかはりにしやくび切りて捨てん事只今にこそあめれ。己が身さらば我を殺せ。更に苦しからず。 と云ひながらさすがに首をば頓に切りやらず。さるほどにこの二つの犬どもに追はれて多くの猿ども皆木の上に逃げ上り惑ひ騒ぎ叫び喧騒るに山も響きて地もかへりぬべし。

かかるほどに一人の神主の神憑きて云ふやう。今日より後更に更にこの生贄をせじ。長く止めてん。人を殺すこと懲りとも懲りぬ。 命を絶つ事今より長くし侍らじ。また我をかくしつとてこの男とかくしまた今日の生贄に当たりつるの人ゆかりを領じ煩はすべからず。 あやまりてその人の子孫の末々に至るまで我守りとならん。ただ疾く疾くこの度の我が命を乞ひ受けよ。いと悲し。我を助けよ。 と述給へば宮司神主よりはじめて多くの人ども驚きをなして皆社の内に入り立ちて騒ぎあわてて手を摩りて。理自づからさぞ侍る。 ただ御神にゆるし給へ。御神もよくぞ仰せらるる。と云へどもこの東人。さなゆるされそ。人の命を絶ち殺すものなればきやつに物の侘しさ知らせんと思ふなり。 わが身こそあなれ。ただ殺されん。苦しからず。と云ひて更に許さず。

かかるほどにこの猿の首は切り放たれぬと見ゆれば宮司も手まどひして誠にすべき方なければいみじき誓言どもを立てて祈り申して。 今より後はかかる事更に更にすべからず。など神も云へば。さらばよしよし。今より後はかかる事なせそ。と云ひ含めてゆるしつ。さてそれより後は凡て人を生贄にせずなりにけり。

さてその男家に帰りていみじう男女あひ思ひて年比の妻夫になりて過ぐしけり。 男はもとより故ありける人の末なりければ口惜しからぬさまにて侍りけり。 その後はかの国に猪鹿をなん生贄にし侍りけるとぞ。

  遠州郷土資料
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