賀茂眞淵 萬葉集遠江歌考

万葉集 遠州地方出身の防人の歌

・内山眞多都(眞龍)…遠江国豊田郡大谷村生まれの江戸時代の国学者
・夏目甕麻呂(甕麿)…遠江国浜名郡白須賀生まれの江戸時代の国学者
・「トヘタホミシルハノイソト ニヘノウラト アヒテシアラハ コトモカユハム」の歌の「しるは」を「相良」とし、「にへの浦」を「筑前」としているが、 「白羽」は天竜川河口付近の浜松市や磐田市竜洋地区に地名があり、「贄浦」は三重県にある。
 

遠江歌考序

天皇はあめのしたをしらし臣は詔を奉りて國を治む東
のくに人都に登りてあだまもる筑紫にいたるを防人と
いふ昔時遠淡海のさきもりが詠る歌を賀茂の眞淵翁が
干代のむかしを忍びて解置れしふみを八十年經て白菅
の夏目甕麻呂木に彫て後の世に伝えむとすかれほぎて
曰岡部のや賀茂の縣居在し世に防人歌をときしるし書
しおかしヽみづくきのあとはのこれどうつし世にうも
れてあるを八十年經てたえずしあればよろづ代につた
へむものと白菅の甕麻呂主いそしみて石木に彫らすこ
の書をほくらにおかば言靈のかみもうけますひとも乞
見む
                    文政六年秋日
                    内山眞多都
                    八十齡にて記

萬葉集遠江歌考

卷第一
二年壬寅太上天皇幸(イデマス)于(ニ)參河國時歌
ヒクマノニ ニホフハギハラ イリミダリ コロモニホハセ タビノシルシニ
引馬野爾 仁保布榛原 入亂 衣爾保波勢 多鼻能知師爾
眞淵按に二年壬寅は文武天皇?位二年なり太上天皇は
持統天皇此時太上と申奉る時なり此御幸は續日本紀卷
第一冬十月にみえたりそれにも參河國に御幸とありて
遠江に至り給ふこともみえねども濱松の宿をひくまの
すくといひし事阿佛尼の記にみえ東鑑にも建長四年宗
尊親王の下り給ひし時引馬の宿にやどり給ふことみえ
たればおのづからいひ來れる地名うたがひなき物か今
も宿の北の方にて引馬坂といふをのぼればいと大なる
野の侍り今は三方が原といへり此野の北はやがて參河
國につゞきたれば御幸のをり官人の隣國にいたれるこ
とありてよめるなるべし此集に某の國に行幸と標して
隣國の地名の歌あるは皆相むかへて知べし。にほふは
ぎ原は凡いろあるものは餘艶のあればいへり卷の十に
「ことさらにころもはすらしをみなへしさヽ野の萩に
にほひてをらん」といふも色に映したるをいふ當集に
朝日影にほへる山とよめるは餘光のほのぼのと東の山
のはに映じたるをいふなり惣て香にもにほふといふは
そことなくあでやかにかをり來るよりいふなり聲のに
ほひも餘音のあるをいへば通はして知べし中にも古は
色に多くいへる詞なり。はぎ原は當集には芽子と書て
はぎとよみ又は榛の字をも書たりされども榛は俗には
りの木ともはんの木ともいひて實も皮も染具とせる木
なりはりとはぎと音のかよへば秋はぎにかりてかける
所もあり此歌も借字なり(ある人問榛も皮を以て衣を
するとみえたれば?その義にて榛の字書たるは秋はぎ
とは別ならんにやと予答芽子の花にも榛の皮にも衣す
ることは勿論なればさもいふべけれども右に引第十卷
の歌は秋詠花といふ心にてにほひてをらんとよみ右の
歌も色にヽほはさんとよみたり榛は花にてするにあら
ねばすらではいかでかにほふよしの侍らん故にこれら
はあきはぎの事としるべしさらば榛字はこヽにては假
借うたがひなし)。入みだりは萩の咲たるなかに人々
いりみだれてなり。衣にほはせは萩の色に映じ又はお
のづからいろのうつるをもいふべし。旅のしるしには
京にてさることもまれなれば旅にて野べにみだれ入た
ればかくはぎの花のうつりつとみやこ人にもみせんと
の心なるべし又此御幸十月なれば萩の散過なんといふ
べけれども此國はいとあたヽかなれば初冬までも花の
あることも侍ぞかし
卷第八
遠江守櫻井王奉天皇(オオキミ)歌一首 天皇ハ聖武也
ナガツキノ ソノハツカリノ ツカヒニモ オモフコヽロハ キコエコヌカモ
九月之 其始鴈乃 使爾毛 念心者 可聞來奴鴨
櫻井王續日本記にかたがたみえたれども御父祖は未た
考ぬなり同紀の天平十六年の所に大藏卿從四位下大原
眞人櫻井云云と侍れば此以前眞人の姓(カバネ)を賜りて臣とせ
られけるなるべしさらば此集第廿卷に大原櫻井眞人と
あるも同じ王なるべし
○長月乃は拾遺集」に伊衡の躬つねに問
よるひるの 數はみそちに あまらぬを など長月と いひ
はじめけん
」 みつねこたふ
秋ふかみ 戀する人の あかしかね 夜を長月と 云にやあ
るらん
」と侍ればげにも秋冬は夜ながきが中に此月ぞ
ながき限りなるべし。その初雁の使にも(一本便にも
とあり義はたがふ事なし)禮記月令曰仲秋之月鴻雁來
季秋之月雁來賓これは八月に先來るを主とし九月にお
くれて來るを賓とするなりされども大樣を云ことにて
侍れば歌などには九月にもはつかりともいふべきなり
いにしへの歌はさることに窮せざるなり使とは蘇武の
古事よりいへり。惣ての意は天皇の久しく御おとづれ
をきヽまいらせねばおおつかなければ折しも鴈の鳴に
よせてよみて奉れ給ふなり
天皇(ノ)賜(タマヘル)報和御歌(ミコタヘノオホミウタ)一首
(報も和もこたへの心なり此集に和歌と書るは皆返
歌なり和歌と書てやまと歌と心得る事は古今集時分
よりの事なり)
オホノウラノ ソノナガハマニ ヨスルナミノ ユタニゾキミヲ オモフコノコロ
大乃浦之 其長濱爾 縁流浪 寛公乎 念此日
大の浦長濱は遠江にある事此御製にてしられたり天龍
川の東に大の郷といふ所侍り其あたりの海邊なるべし。
ゆたは寛の字のことにてひろきことをもいひ或は大
船のゆたのたゆたになどいふ所にも寛の字を書たる歌
もあるなりそれは大海の波に大ふねのゆらるヽにたと
へてもいふなり御製の意は其長濱の浪のゆらゆらとた
ゆたふが如く王をおぼしめす御心此比しきりにゆられ
うごきておはしますとなり其長濱とは王のおはします
所を遙にさすなれば王の歌の其初雁とあるも天皇の御
方より來る雁といふ意にて其とはおかれ侍るらん此集
には其とさすにもさる心なきも侍り
卷十四
遠江國相聞(アイキヽ,ソウモン)歌二首
此集に相聞歌とあるは古今集以下に戀歌といふに似
たりされども男女の戀情のみならす親子兄弟妻子を
相おもふ心をよめるも此うちに入たり互に相おもふ
心を聞ゆるといふ義なり此二首は戀の相聞なり
アラタヤノ キベノハヤシニ ナヲタテヽ ユキカツマシヽ イ
阿良多麻能 伎倍乃波也之爾 奈乎多?天 由吉可都麻思自 移
ヲサキダヽ子
乎佐伎太多尼
是はきべの里の女が男に贈る歌なり。あら玉はこれは
郡の名なり和名集に當國に麁玉郡あり今は小郡となれ
るに文德實録に麁玉川に三百丈つヽみをかけられたる
こと見えて今もあり玉といふはそのあたりの惣號なり。
きべの林はきべの郷の林なり此郷今はさだかならず
或人のいはくあり玉のちかくに貴平村あり是なるべし
とげにもいにしへ國郡郷村の名を佳字にあらためられ
しこと侍れば貴平と改て猶平はへのかなに用ひられつ
らんを後世平の音へいなるによりておのづからきへい
とよびならひ侍るなるべし。なをたてヽは汝を立せて
なり人をさしてなれともなともいふは古語なり。ゆき
かつましヽは雪歟積りしなり。いをさきたヾねは寢を
先だてなヽりいはぬるをいふ。惣の意は此郷なる女
のもとに男のかよひ來りて此林に立てともねせんほど
を待に寒夜なれば雪がふりつみてわひしかるべきにわ
れはまだぬべきよしのなければ先立て夜床に入てねよ
かしといふなり
キベヒトノ マダラブスマニ ワタサハタ イリナマシモノ イ
伎倍比等乃 萬太良夫須麻爾 和多佐波太 伊利奈麻之母乃 伊
モガヲドコニ
毛我乎杼許爾
きべ人は此女その郷にあればさしていふなり落句にい
もといへども重ねていふもくるしからず。まだらふす
まは斑衾なり(卷の七にまだら衣ともよみたり)。ま
だらは染たるをも織たるをも云べし衾は今昔物語に受
領のもとへ行てねたるにわたのあつさ五寸ばかりなる
をめづらしとおもへる貧人の侍りければうすわたなる
も侍るべし。わたさはたはわたは綿なりさはたは多綿
の中略なり多きことをさはといふは古語なり。いらな
ましものは入れなましをなり。妹がをどこは妹が小床
なり妻をいもといふは古への俗語なりいまだ妻と定め
ねども懸想せるをばやがていもといふは古へのつねな
り小どこは狹莚のさの語のごとくちいさくせまきなり
かくいへば女をはづかしむる樣なれどもさにはあらず
「さむしろにころもかたしきこよひもやわれを待んう
ちのはし姫」といふさむしろも同じくて只わびしき義
にとるなり。惣の心は先の歌にいをさきだてといふに
まかせていもが床に入たるにいと寒さの猶たへがたけ
れば衾にわたをさはにいれまし物をと悔たるなり又上
句は入といはん序までにてかくばかりの寒夜にとくに
いもが床に入てねんものをと床にぬる時に立待しほど
のわびしさを悔ていふ歟さらば發句は惣じてのきべ人
をいふなり
同卷
譬喩歌(タトヘウタ,ヒユ)
たとへ歌は物を出してそれが樣にあると物と心とわか
れたるもあり又遠くたとへたるは諷(ソヘ)歌めきたるも侍り
ちかくたとへ遠くたとへたるのたがひのみにて意は同
じ事なりそへ歌は一向におもては他物にて打かへして
みれば別意となるなり
トホツアフミ イナサホソエノ ミヲツクシ アレヲタノメテ
等保都安布美 伊奈佐保曾江乃 水乎都久志 安禮乎多能米?
アサマシモノヲ
安佐麻之物能乎
とほつあふみは敷智郡と濱名郡のあはひに大なる湖あ
りしなり今は舞澤の(今舞坂といふは訛なり東鑑など
には舞澤と有)松原うち崩されてより潮入てわかちな
く成たり京ちかくに淡海あるにむかへて當國をば遠津
淡海といふなり遠津の津は助語なりあふみはあはうみ
のはうをつヾむればふの一語となる故にあふみといふ
なり湖は潮海に對して水はあはしければ淡海といふな
り。いなさ細江は和名集に當國に引佐郡侍りて今も其
山をいなさ山といひ村にもいなさといふあり山あひを
ふかくいりまがりたる入江にて細江といふべくえもい
はずよきけしきの所なり後の人は大道ならではよき人
歌よむ人も行かはじとおもふより濱松舞澤のあひだ蓮
ある池などをいふとて後世僞作せる風土記などにもさ
と書しなり古風土記のよろしきは今は二國三國ならで
は傳らぬなり凡昔は國のかみ以下の官人は國府に居な
り郡司は京より下るも侍れども多は其所に昔よりある
百姓のなることなり(古へ百姓といふは士のたぐひな
り)此歌は國風なればいなさ郡の郡司などのよみたる
なるべし。みほつくしは續日本紀に難波に標零(木へん)をたて
たるよし始て見えて其後かたがたにも侍るなり木に尺
寸をきざみ附て水中に建おきて水の淺深をはかるなり
故に水脈籤(ミヲツクシ)の義なり。あれをたのめては我を令賴(タノマシメ)な
り古はわれをあれともあともいひしなりたのめては心
におもひたのましむるなり。あさまし物をは淺き物を
なりましは只語なり。心は此入江のみほつくしのごと
くふかくおもふよしをいひつればさることヽおもひた
のしみたるに末になりてみれば我はいと淺淺しく
のみある物をとそのなげきを標零(木へん)にたとへてのぶるなり
卷十一
正述心緒(ただしクこころおヲノフ)
アラタマノ キベガタカガキ アミメユモ イモシミエナバ ワレヒメヤモ
璞之 寸戸我竹垣 編目從毛 妹志所見者 吾戀目八方
寸戸の二字を仙覺が本にすこと訓したるは發句を玉だ
れの簾といふ心にて訓せしにや璞之と書てはあらたま
とならではよみがたくあら玉を簾の冠辭とせし例もな
ければあしかるべし是はきべと訓て伎倍人のとある所
の名とすべし寸をきといふは和語なれども後世は馬に
のみ七寸八寸(ナヽキヤキ)などいふことの殘りて侍りがはのに通じ
ていへり君が代君の代といふ類多きなり。歌の心は明
らかなり竹垣のあみめよりなりとも妹をみることあら
ばかくは戀んやもといへばいと見ることだにかたき中
にこそ侍らめ。從毛(ユモ)といふはよりといふを古語にゆと
いひ來れり落句のもは助語なり
 
卷二十
天平勝寶七年乙未二月相替遺筑紫諸國防人等歌
(つくしニアヒカヘツカハスしょこくノサキモリラガうた)
○令を按にむかしは筑前國に太宰府をおかれて異國
のそなへとせられしなり其長官を太宰帥(ノソツ)といひ其官
人もろもろ侍りしなり其下に兵士とて遠江より以東
の國々の百姓の一戸に男子三人以上あるをば一人づ
つとりて郡ごとに軍團とて軍を習練せる所ありてそ
こにて軍をならはしめおき軍あれば勿論さらでも右
の太宰府へ三年替りにつかはしてまもらするなり其
はじめて行たるを新防人(ニイサキモリ)といふなりそれが中にて三
百人は京につかはして是を衛士と云なり京なるは一
年替りなり衛士と防人と名號のかはるのみにて人は
同事なり右の防人旅立とき父母妻子等にわかれをヽ
しみ道にても太宰府にても古郷をこひなげきし歌ど
もを此集の末に所々載たり
カシコシヤ ミコトカヾブリ アスユリヤ カエガイムタ子ヲ
可之古伎夜 美許等加我布理 阿須由利也 加曳我伊牟多禰乎
イムナシニシテ
伊牟奈之爾志弖
右一首國造丁(クニノミヤツコノヨホロ)長下郡物部秋持(モノヽベノアキモチ)
かしこしやは恐惶畏などの字を共にかしこしとよむな
り天子をおそれてなりや文字はよ文字に通してかしこ
しよと心得る助辭なり。みことかヾぶりは勅命を蒙り
なり。あすゆりや明日より歟なり。かえがいむたねは
かえがは未詳おそらくは地の名なるべしがはのに通じ
てかえのなりいむたねは夜共寢なりよるねることをい
ねるともいとばかりもいふ共の字を當集にむたとよみ
むたはともといふ古語にてかえといふ所のともねをな
り。いむなしにしては妹無に而なり△惣の意はかしこ
き勅命をかヾふりたればかえの里にともねせしつまに
もわかれて明るの夜よりは三年が間ひとりねをすべき
ならんと名殘を惜みたるなり。
○國造は其國に世々ありて今いふ郷士のたぐひにて
すなはち郡司なるべし(郡司は京より來るも又は多
は其國郡に在來ものなり)丁(ヨホロ,テフ)は仕丁(シテフ)とてつかはれ人
なり是も奴にはあらで百姓なりよぼろとよむ心は使
などにはせありくより足にある所のほねの名をもて
呼(ヨブ)なり
ワガツマハ イタクコヒラシ ノムミヅニ カゴサエミエテ ヨ
和我都麻波 伊多久古比良之 乃牟美豆爾 加其佐倍美曳弖 余
ニワスラレズ
爾和須良禮受
シユチヤウノヨホロアラタマノワカヤマトベノミマロ
右一首主張丁麁玉郡若倭部身麻呂
いたくこひらしは痛く戀らしなり。かごさへ見えては
影さへ見えてなり。よにわすられずは世上にわすられ
ぬことは多けれども其中にとりわきて忘られがたきと
なり惣てよにといふ詞はいづれの歌にてもその心なり
只に詞なりといふ注はあしきなり△妻は古郷に侍れば
今わが飮(ノム)水に影のみゆべきにあらねども我がおもふ心
より何にも其面かげのはなれねば却て妻が我を戀故に
や面かげにみえてわすれがたきといひなすは古も今も
歌のつねなり水は人の影のうつるものなればいづれは
あれどのむ水にもといふなり。
○主張は軍團(グンダン)の物書なり丁は其つかひ人なり是また
奴にはあらず下役つき人のごとし
トキドキノ ハナハサケドモ ナニスレソ ハヽトフハナノ サ
等伎騰吉乃 波奈波佐家登母 奈爾須禮曾 波々登布波奈乃 佐
キテコズケム
吉低己受祁牟
右一首防人(サキモリ)山名郡丈部眞麻呂(ハセベノママロ)
なにすれぞは何ぞなりいかでといふに同じ。こずけん
は來ざりけんといふをつヾめたる語なり。はヽとふは
なは母と云花はなり此花は母子草をいふ歟又母を稱し
て花といひなすにても有べしとふと云事はと云といふ
を略してとふといふなり後世戀すてふおもふてふなど
のてふも此ことなり萬葉にはといの二語をつヾむれば
ちの一語となる故に何ちふとあり又といのいを略して
右の如く母とふともいへりそれを後世は又ちとてと相
通じててふと言なり△遠きさかひまでも時々の花は咲
來りて古郷と同じけれどもわがしたふ母といふ花の咲
來ぬがわびしきとなり。
○防人は太宰府にて異國のあだをふせぎまもる故に防
人と書且此まもる所は海の崎なれば是をさきもりとい
ふなりことしかく新さきもりがあさ衣といふ歌をも後
世六百年ほど以來の歌よみは古書をよく見ざるにやに
ひさきもりは流人なりなどいへりことに此防人の歌は
國の方言のまじれば古の語學なくては通じがたきこと
ども多し
トヘタホミ シルハノイソト ニヘノウラト アヒテシアラハ
等倍多保美 志留波乃伊宗等 爾閉乃宇良等 安比弖之阿良婆
コトモカユハム
己等母加由波牟
右一首同郡丈部川相(ハセベノカハヒ)
とへたほみは遠つ淡海なりとほつあふみを略語せばと
ほたふみと書べき事なり然るに和名集にとほたあふみ
とあるはあの字餘りて略語の例にたがへり此歌は其國
にて唱ふる所を其まヽに書たればとへたほみと侍るな
るベし心なきをけヽれなくといふ方言もおもひ合すべ
し。しるはのいそは今相良といふ所の近くにしろはの
みさきといふ是なり。にへの浦は筑前にあるべし此歌
のつヾけからは膳具の汁にむかへる贄(ニヘ)物の樣にちかく
侍らば消息もかよひ安からましをしるはとにへと名の
み似て數干里をへだてたればかひなしとなり用ること
は雅ならねども心はいたしけるなりされども古歌には
御食(ミケ)向あはぢなどつヾけても侍るなり詩經といへるふ
みに梅を詠ぜしに實の事をのみいひて花やかをりをば
いはざるなり上古のことはまことあることヾもにてし
たはしきなり
チヽハヽモ ハナニモガモヤ クサマクラ タビハユクトモ サ
知々波々母 波奈爾母我毛夜 久佐麻久良 多妣波由久等母 佐
サゴテユカム
佐己弖由加牟
右一首佐野郡丈部黑當(クロタヘ)
さヽごては捧てなり父母は花にだにあれかしさらば折
て手にさしあげて見る如く筑紫までにさヽげてゆかん
をとしたふ餘りにいへり。
佐野郡は今さの郡といふはよこなまれり續日本紀に
○佐益(ヤ)郡の八郷を割(サキ)て始て山名郡をおくと侍り延喜式に
は佐夜郡と書たり古今集にかひかねはさやにもみしか
といひて下にさやの中山といふ語勢あり古今六帖に東
路のさやの中山さやかにもとよみ新古今集に入たる忠
峯の歌にもさるかさね句侍りてさやとよむべきことな
り或説により來るにまかせてさよの中山とよみたるを
もゆるしたるは古實をこのまぬ時代のさだなり大かた
其頃より日本の古實は皆うしなへりなげくべき事な

チヽハヽガ トノヽシリベノ モヽヨグサ モヽヨイテマセ ワガキ
父母我 等能々志利弊乃 母々余具佐 母々與伊弖麻勢 和我伎
タルマデ
多流麻弖
右一首同郡生玉部足國(イクダマヘノタリクニ)
とのヽしりべは殿の後(ウシロノ)庭をさしていふ。もヽよくさ
は未詳さて百世といはん爲の冠辭(カフムリコトバ)なり(俗にまくら
詞といふ)。もヽよいてませば百世息在(モヽヨイキテイマセ)なり伊てませ
と書たれば居てませの心にはあらずいきての下略なり。
わが來るまでは三年の後替りて歸るまでなり
ワガツマモ ヱニカキトラム イツマモカ タビュクアレハ ミ
和我都麻母 晝爾可伎等良無 伊豆麻母加 多比由久阿禮波 美
ツヽシノバム
都々志努波牟
右一首長下郡物部古(フル)麻呂
いつまもがはいは發語にて心なしつまにもがなといふ
べきをに文字となもじを略せしなりいの發語は當集に
隠るヽをいがくるヽとよみ弓を立よせるをいたてよせ
などいふ類數しらず爾雅曰伊ハ維也注云發語詞也凡うた
ふ物には助辭發語おのづからある事からもやまとも同
事なり後世はうたふにしもあらねども此心をうしなは
で歌には猶助辭發語をなすなり。あれは我なり。しの
ばんはしたはんなり凡しのぶといふに三の心あり其本
は心の中におくことを忍といふ(堪忍の類是なり)心
におきて外へいひ出さぬよりかくすことにも用う(忍
ぶ戀の類是なり)。又心におきてわすれぬが故にした
ふことにもなれりむかしを忍ぶといふ類是なり惣ての
語に本末輕重の用ひかたありそれをよく心得ねば古語
は解せざる物なり△此歌は上のちヽはヽは花にもがも
などいふ心に同じ(萬葉にはかなといふことなしかも
といふに三品あり共に毛の字は助語なり一つには後世
のかなに同じ二つには願のがなり三つには願のがもな
り是は濁るなり)
二月六日右に云天平二年二月なり防人部領使(サキモリノコトリヅカヒ)遠江國史生坂本朝臣人上(シシヤウサカモトノアソンヒトガミ)
進(タテマツル)歌數十八首但有拙劣歌十一首不取載之
(ことりつかひとは事執使の義にて其事をとり用るな
り)
右の遠江の防人等の歌を其部領使が集て獻せしなり其
中にていとつたなくあしきをば家持の心にてのせざる
なり。部領使は防人を率て行く宰領なり史生は國守の
物書なり其國より難波の津までは其國々の守の官人部
領し行て難波にて兵部省の官人にわたし兵部の官人船
にて太宰府まで送るなり上古の風をみるに當集に東國
の歌どもを以ておもふにしくはなし此集なかりせば何
によりてか古の國風をみんいとよく考おきてもてあそ
ぶべきは此國風の歌にこそ
以上十四首此集にみえて當國の人の歌或は當國の地
名ある歌なり此外に名高の浦あと川なども此國の名
所なりと後にはいへど此集にてみるに當國には侍ら
ずされとも其證の爲左に一二書付侍る
卷七に寄浦沙是は相聞にて物によせたるものなり
ムラサキノ ナダカノウラノ マナゴヂニ ソデノミフレテ 子ズカナリナム
紫之 名高浦之 愛子地 袖耳觸而 不寢香將成
むらさきは古來高貴の衣冠のいろにて和漢ともにたふ
とむ故に名の貴といふ義にて此浦の冠辭とせるなり此
浦より紫の出るなど心得るは誤りなり。愛子とは古歌
にちヽはヽに我はまこ子ぞなどよみて實の愛子といふ
心なるを沙をもまさごともまなごともいふより借字に
なしたるなり
同卷に寄藻
ムラサキノ ナダカノウラノ ナノリソノ イソニナビカム トキマツワレヲ
紫之 名高浦乃 名苔藻之 於磯將靡 時待吾乎
卷十一
ムラサキノ ナダカノウラノ ナビキモノ コヽロハイモニ ヨリニシモノヲ
紫之 名高乃浦之 靡藻之 情者妹爾 因西鬼乎
なびきもの如くといふを之の字にてつヾめたるなり。
西の字は借字なり。鬼の字をものとよむはものいみも
のヽけなどいふ類のものは皆鬼といふ心にてぞ侍る是
も借てかけり
同卷
キノウミノ ナダカノウラニ ヨスルナミ オトタカキカモ アハヌコユヱニ
木海之 名高之浦爾 依浪 音高鳬 不相子故爾
○上のむらさきのとあるはまくら詞にて此きの海のと
あるは實をのべたれば名高の浦は紀伊國にあること明
らかなり又紀伊とかヽずして木の字を書たれば今の人
は疑もしぬべければ左にいはん此國上古に木神を齋ま
つれる故に木の國とはいふなり故に當集には所々木國
とも木路とも書たるなり古事記を見てあきらむべし又
中古に國郡村里の名をよき字に改め且二字にみな書た
る時此國をば紀の字に改きの音を引て唱ればいの音あ
る故に紀伊と書なりされどもヽとよりそはれる音字な
れば今も紀伊と書てきとばかりよむ事なり
卷七
旋頭歌の中に
アラレフル トホツエニアル アトガハヤナギ カリスレド マタオフルチフ アトカハヤナギ
(あられ)雪降 遠江 吾跡川楊 雖苅 亦生云 余跡川楊
あられふるとほとつヾけしはおとヽいふおの字を略し
てつヾけつるなり音をとヽばかりいふ例は浪の音をな
みのとヽよみあづさ弓よとのおほとヽよみしもよるの
おとのをおとヽいふを略したればなり上古の作詞のつ
づけは如此かすかなる詞にいひかけたる例數ふべから
ず。遠江の二字はとほつあふみとよみて遠州のことヽ
すべけれども此あと川は近江の高島郡にて當集にたか
しまのあと川浪ともあとのみなどとも又はしほづすが
うらなどよみ合て侍れば決て遠州には侍らずさて湖を
ば江とばかりもいふに此高島郡は同じ湖の邊にても都
より遠ければとほつえにあるとよみたるべし近江なる
語餘りに多ければ歌は略してひかず此歌の心を序てに
いはヾ柳は刈ても又もとの如くめの出てしげる物故に
人をおもふ事或時はおもひたえても又おもひおこして
戀しきにたとへたるなるべし。旋頭歌は五字七字七字
を上句とし下句もまた右のごとくなり萬葉集中に數々
侍れども皆然り古今集にても右のことく「打わたすを
ちかた人に物申われ上句そのそこに白く咲るは何の花
そも下句」「春さればのべに先咲みれとあかぬ花上句ま
ひなしにたヾなのるべき花の名なれや」とよむべきを
後世誤りてわれの詞花の詞を下句につけてよむは萬葉
をよく心得ざる故の誤りなり俊賴朝臣などの頃もはや
く古學はなかりければ此體をよまれしに句のおかれ樣
の誤り侍るなり是らはこヽに無用ながらことの序てに
筆にまかせて侍るめり此國の歌の萬葉に入たるを書出
してまいらせよとあるにまかせて
 
寛保二年冬東のみやこにてしるす
眞淵著
 
 
遠江歌考を彫れる所由
世にいふ加茂眞淵の翁は敷智郡伊場の里に世々を經て
家居すなる岡部の黨(トモ)の中より出たる人にてそこに隣れ
る濱松の驛の梅谷が家に一代の主として家職をさめな
がらに明暮古事まなびに心よせて其道をまなび其道を
敎へむとのみ思ひこらしておはしたるを此翁家におは
せずとて烟よわらむ竈にはあらずまだ若けれど家督ぐ
べき子さへ坐せば學の道の爲には何かはなど心ある人
人のそヾのかしいはるヽにざえある身にはえそむきあ
へずてしばしがほどはと雄心おこして妻の刀自にもわ
く子にも思ひかへて江戸の御里に參でヽ田安の殿に
仕奉りたまへりしなどの委曲(クハ)しき事どもは別(コト)に翁の傳
もて記したるに云へるがごとくなれば其を開き見て知
るべしさて世にはひたぶるに郷をも家をもうかれ出給
へる人のごと聞ひがめたるともがらも有とぞきくそは
翁の爲のみならす道の爲にもいとうれはしきおよづれ
なりかししか江戸には住つきたまひしかどなほ旅居の
假ずまひなりとやおぼしけむ古郷したはしくのみ思は
れて學の功もやヽ成なむ後にはいかでいかでと下におほ
しわたり給ふほどに三枝(サキクサ)の紋(アヤ)のみけしをはじめ何くれ
と殊なる御惠どもの重なりゆくまヽに心ならずながら
さてなむ過し給へりとかや其ゆかりちかき人々の家々
に傳へもたる翁の消息文あるは齡ふかき人の物がたり
などを多くきヽあつむるにもその心ざしのほどはおし
はかられぬかし彼消息ども多きが中にあからさまに故
郷にまからむとするをさてもしばしばにこそ有れ終に
はいかに思ひ定むるぞと人の云に其人の送りする道に
てと詞書して「故郷にとまりもはてず天雲の行かひて
のみ世をや經なまし」又「みよしのヽかりのすみかに春
たちぬいつふるさとへわれもゆかまし」などよみたま
ひたる歌などを書てそへ給へるもありことにかしこは
かぐ豆知の御荒びの世にことなるを心うしとや思され
けむ又は身こそかヽれ心ばかりはとや思ほしつらむ此
地にて大かた端おこされたる書どものかしこにて淸ら
に書をへられたるをも又はむかしながらの草稿のまヽ
なるをもたよりにつけつヽ民部少輔暉昌神主阿波守國
滿神主齋藤信幸神主などのもとを始としてうがら友だ
ちの何がしくれがしとておほく有しがもとにも或は敎
子なりし壹岐守土滿神主在今の内山眞龍叟などにもよ
く取したヽめておきねとて贈られたるが中にはいまだ
世にあらはれぬ書どもヽこれかれ多くなん有けるかく
て此遠江歌考は其濱松の里なる渡邊直之が家によしあ
りて傳へもたるになむあるをおのれをとヽしの秋のこ
ろ此翁の五十年の祭儀竟て後淸原重年神主石川依平等
とヽもにしばしかしこに有けるほど一日直之來りてい
へらく此書よ何ばかりの物ならねどこの國人の古の歌
とて註したまへるものなれば此地の人にもなべての世
にも知らせまほしかるを年ごろ事おこなひいそしみ給
ふとうけたまはれる彼類彙の書ども櫻木に彫らする其
てびとヾもの暇のひまに是をもやとて取出て見する
を見るにまがふべくもあらぬ翁の筆にて彼萬葉考註さ
れたるほどよりはやヽ早き世の考にしてさしも委しか
らぬ物にはあれどまこと直之がいへるごとくかく埋ら
してのみあらむもねむなきこヽちの爲ればやがてもち
かへりてかヽるさまには物せしなりけり此書もいまだ
例のきよがきにはあらねばそこかしこ書ひがめ給へる
處々もあなれど百年の後に見忍ばんかたみにとておく
り給へるものヽその筆のあとの露ばかりもたがはむは
翁の心いかにおほさむとて有るがまヽにていとねもご
ろにものせさせつるなりさるは翁は世人の知れるやう
に物かきたまふ手さへかくいみじくおはせばかの難波
津あさか山にもなど見む人のあまりのよろこびもや
との心などもかつはそふ方のありてなりけりかくて此
にそへたるおのが考よ此書の端などに附ていはんは大
の浦浪おほけなきしわざにては有なれど人もわれも物
よりことに心とまるはたヾ産れし國の故事なれば年月
に思ひよりし事どものいはまほしきが多かるをかヽる
事のついでにはえもだしあへずてなむ引佐細江のみを
つくしさも淺ましげなるよしなしごともこヽろふかめ
しかぎりにて寸戸我竹垣かきそふるもをこわざとな見
たまひそ
文政三年正月夏目甕麻呂
萬葉集遠江歌考終


  遠州郷土資料
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